人に対してもっと優しくなりたい|寛容さを身に着けるための大事な視点
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
お悩み解消研究家のわかです。
「いつも人のことを批判的に見てしまう」
「人が間違ったことをしていると責める気持ちが起きてくる」
そういった声を聞くことがあります。
間違った行いに対して注意したり、ハッキリと意見を伝えることはもちろん大切です。
しかし、強く言いすぎたために周りの人との関係を損ねてしまうことも少なからずあるのではないでしょうか。
他人の間違いや失敗に対して寛容に接するにはどうしたらよいのか、考えてみたいと思います。
「正義感」は扱いが難しい
間違ったことはいけない。正しいことをしなければならない。
他人の間違いや失敗に対して反応するのは、そういった正義感の現れなのだと思います。
自分の正義に反する人に対して批判的になってしまうのです。
私は大学時代に正義論について勉強していましたが、「正義」というのは大変難しい言葉だと思います。
正義は、時代や国、立場とともに変化するものだからです。
自分ではこれが正義、と思っているものも、他の人から見ると正義とは言えない場合もあります。
実際、昔から多くの哲学者が正義について議論していますが、いまだに答えが出ていないのです。
何が間違いで、何が正しいのか。
人によって変わる正義をもとにした正義感は、実はとても不安定なものなのかもしれません。
だからこそ、とても扱いが難しいのだと思います。
「自分が正しい」が怒りを助長する
私たちが腹が立つ原因の一つに「自分は正しい。相手が間違っている」と思うことが挙げられます。
どういうわけか、私たちは自分が正しいと思うと相手を必要以上に攻撃してしまうのです。
「暴走する正義感」という言葉をよく聞きますが、文字通り歯止めが利かなくなるのでしょう。
怒りは相手も自分も傷つける恐ろしい心ですから、注意が必要です。
上記のように、正義は場所や時代によっても形を変えるもの。
もっと言えば、人によっても異なるものでしょう。
「これは絶対的に正しい」と言えるものはないのが本当のところなのではないでしょうか。
寛容さを身に着けるための大事な視点
聖徳太子によって作られた十七条憲法の中には次のような言葉があります。
「我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫ならくのみ」
「私がいつも正しい訳ではない。相手がいつも間違っている訳でもない。私も相手も、ともに凡夫、誤った判断をする人間である」という意味です。
仏教では、私たちの姿を「煩悩具足の凡夫」と教えられます。
「具足」とはかたまり、「凡夫」とは人間ということですから、煩悩のかたまりが人間であると言われているのです。
日々、欲や怒り、ねたみ・そねみの煩悩に動かされている私たち。
自分が正しいと思っていることも、突き詰めてみれば自分に都合のいいことをそのように判断しているだけなのかもしれません。
自分が必ずしも正しいわけではないと知ると、一方的に相手を責める気持ちも薄れていくのではないでしょうか。
それこそ、寛容さを身に着けるための大事な視点なのだと思います。
まとめ
私たちにはそれぞれ、「これが正しい」と思う価値観があります。
その価値観に反している人を見ると、責めたくなる気持ちが出てくるかもしれません。
しかし、「正しい」という判断は時代や場所、人によって異なるものです。
自分が正しいと思っていても、相手にとっては正しくないことかもしれません。
聖徳太子は「私も相手もともに凡夫なのだ」と教えられています。
自分の姿をよくよく知ると、相手を一方的に責める気持ちも薄れ、寛容になることができるのではないでしょうか。
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