過去の嫌なことをずっとひきずる人にどんなアドバイスがよいのか
わかりやすく仏教を伝える研究家、あさだです。
しばらく前に何か嫌なことがあって、くよくよしている人があると、
「いつまでも過去にとらわれていても仕方がない、早く忘れよう」
と励ましたりします。
本人もそうしようとはするのですが、
「やっぱり私はなかなか変われない、もともとこんな性格だから」
「あんな嫌な経験、もう忘れることなんてできない」
忘れよう、忘れようと思っても、なかなか忘れられない、そして、ずっとひきずっている。
そんな人は、皆さんの周りにいないでしょうか。
そんな時、どんなアドバイスをしたらよいのか、あるエピソードを通して、紹介したいと思います。
目次
中国・唐の時代、禅宗の徳山宣鑑(とくざんせんがん)の話
『臨済の「喝」・徳山の「棒」(りんざいのかつ・とくざんのぼう)』
禅宗では『臨済の「喝」・徳山の「棒」』といわれるほど、徳山の名は知られています。
臨済宗を開いた臨済義玄(りんざいぎげん)は「喝」で、徳山宣鑑(とくざんせんがん)は「棒」で導いたところから、『臨済の「喝」・徳山の「棒」』と言われています。
「喝」とは、あるニュース番組のスポーツコーナーで使われているようですが、本来、禅宗では、叱咤(しった)の声で、相手に言句(ごんく)を差しはさむ余地を与えないために用いられた言葉です。
徳山の「棒」とは、
道(い)い得るも也(また)、三十棒
道(い)い得ざるも也〈また〉、三十棒
(意訳)
きちんと答えても三十棒を打ち、答えられなくてもまた三十棒を打つ。
修行者には棒を以って、厳しく導いたといいます。
答えても答えられなくても棒で叩かれるとは、普通、理解しがたいことです。
右でもなければ左でもない、有でもなければ無でもない。
これは、いずれも否定し、すべてを否定し、否定し否定しつくした絶対的境涯を引き出す導きの方法と言われています。
竜潭祟信(りゅうたん・そうしん)との出会い
徳山は、若くして出家し、広く仏教を学び、律に精通していました。特に金剛経(こんごうきょう)の研究では、群を抜いており、出家する前の俗姓が周氏だったので「周金剛(しゅうこんごう)」とも呼ばれていました。
ある時、金剛経の注釈書を車に積みこんで移動し、小腹が空いたので点心(てんじん)でも食べようと道端の茶店に立ち寄りました。
すると、その茶店のお婆さんが質問してきました。
「お坊さま、たくさんの本が見えますが、何の本でしょうか」
「あれは、金剛経の注釈書だ」
「そうでしたか。では、お坊さまに一つお聞きしたいことがあります。金剛経の中に『過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得』とありますが、お坊さまは、どの心に点心なさりたいのでしょうか」
(過去、現在、未来、いずれも心をとらえることができないのなら、どの心に点を打つのでしょうかという質問)
この問いを尋ねられた徳山は、何も答えることができなかった。
「お婆さん。それはお前さんの考えではなかろう。どなたからお聞きした話かな」
「この先に竜潭和尚という大徳がおられます」
徳山はすぐに竜潭を訪ね、教えを乞いました。
気づけば、夜も更けていました。
竜潭(りゅうたん)の紙燭(しそく)
竜潭は、紙燭(しそく:紙をよって、油をひたした灯火)を取り出して、「これを持っていきなさい」と徳山に差し出しました。
徳山が紙燭を受け取ろうとしたところ、竜潭は、フッと火を吹き消してしまったのです。
すると、真っ暗になりました。
これは、何を伝えようとしたのでしょうか。
灯により暗闇は明るくなるが、灯を消せば、また、暗闇に戻る。
暗闇がなくなったのではない。
「明るい」とか「暗い」とかは、その人その人の心次第によるのだ。
まとめ
暗闇をなくすことができないように、過去の嫌なこともそんな簡単に消すことはできません。
しかし、灯によって、暗闇があっても明るいと感じたように、新しく心の灯になるようなことを始めることで、暗かった心が、明るくなった感じがします。
やがて、太陽が出れば、暗闇が消えていくように、時がたてば、暗い過去の出来事も忘れることができるでしょう。
嫌なことを忘れようとするのではなく、何か新しいことを始めてみることが大事です。
新しい何かをすすめてみてはどうでしょうか。
(関連)
お釈迦様のエピソードもあります。
お釈迦様物語|ささいな行いもおろそかにできぬ|多根樹の不思議
あさだ よしあき
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