「母が亡くなった」悲しみと後悔ばかりの私にできる恩返しとは
こころ寄り添う研究家の九条えみです。
人生に悲しみは尽きませんが、中でも激しい悲しみは死別の悲しみだと思います。
それも深い人間関係であるほど、悲しみも比例して大きくなります。
とくに産み育ててくれた母親が亡くなった時の悲しみは、簡単に癒えるものではないようです。
ある66歳の女性から、お母さまを亡くされた悲しみをお聞きしたことがあります。
母を亡くした悲しみの声
本当に母を亡くした寂しさは歳を増すにつれ強まります。
急だったので、ありがとうとも言えず、あちこちに連れて行ってあげたかったと悔やまれて仕方ありません。
こんな寂しさも他の人に話したところで理解してもらえるわけでもなく、ただグッとだまって堪えるしかありません。
働いていたので友達もおらず、聞いてくれる主人もいません。
同じように家族を亡くした友達は3年かかった、と話していました。
以前は2人で食べていた食事も、今は一人で食べ、しゃべることもなく切ないです。
母に大変お世話になった。
しかし、何もできないまま、母はあっというまに亡くなってしまった。
悔いがあります。私はどのように生きて行けばいいですか?
(66歳・女性)
亡くなったお母さまを慕うお気持ち、悲しみがひしひしと伝わるようです。
母親の恩を強く感じられている分、残された自分がどのように生きていけば、亡くなった母が本当に喜んでくれるのだろうか?と悩みも深くなられるのだと思います。
亡くなった母への悲しみと、これからどう生きていけばいいかと悩まれるお声を聞いて、仏教に説かれる「亡くなった人が最も喜ぶこと」のお話しを思い出しました。
亡くなった人が最も喜ぶこと
亡くなった親や先祖、伴侶や子供を本当に喜ばせるには、どうすればよいか、と真面目に考えてみると、私自身が自分の子孫、家族に何を望んでいるかを考えてみれば分かります。
生きていれば、いろんな困難や災難がやってきますが、わが子にはどんな苦難も乗り越えて、正しく生きてほしい。そして真の幸福になってほしい、これ一つではないでしょうか。
とすれば、私たちが正しく生きて、まことの幸せになることが、亡き先祖の最も喜ぶことであり、私の命を生み育んでくれたご恩に報いることになりましょう。
この世の幸福は、どんなに懸命に努力して手に入れても、しばらくすると色あせ、崩れ、なくなって悲しみに沈みます。
「何のために生きているのかナァ」
「はー、いっそ生まれてこなければよかった」
と、タメ息をつく日々では、亡き先祖もどんなに悲しい思いをするでしょう。
仏教に説かれる絶対の幸福に生かされて初めて、「生まれてきてよかった」の生命の歓喜があり、「こんな幸せになれたのも、生み育ててくれたおかげです。ありがとうございます」と、先祖のご恩を心から感じる身になることができるのです。
それが亡き人のいちばん喜ぶことではないでしょうか。
幸福にも2とおりある
亡くなった親や先祖が最も喜ぶことが残された自分が幸福に生きることだとすれば、幸福について考えてみる必要がありそうです。
仏教では幸福に「相対の幸福」と「絶対の幸福」の2つがあると教えられています。
相対の幸福とは、金や地位、名誉、健康など、日々、私たちが求めている幸せのことです。
手にした時は喜びや満足を得られるのですが、「続かない」という特徴があります。
これらの幸せはやがては色あせてしまいます。
喜びが続いたとしても人生の終わりには自分から離れていってしまいます。
それに対して、絶対の幸福とは「永遠に変わらない幸福」を言います。
「絶対の幸福」を初めて耳にしたという方は馴染みがないなぁと思われるでしょう。私もそうでした。
しかし意外なことに、日本人に昔から親しまれてきた「いろは歌」には、絶対の幸福の存在が示されているのです。仏教国である日本らしいですね。
絶対の幸福といろは歌の関係は『知ってそうで知らない「いろは歌」に隠された絶対の幸福への道』をご覧ください。
絶対の幸福は仏教に詳しく説かれています。
お母さまを亡くされた悲しみ、そして、生きているうちにもっと孝行しておけばよかったという後悔は、簡単に癒えるものではないでしょう。
しかし、その悲しみを糧にしてあなたが絶対の幸福になられたら、「亡くなった母が、絶対の幸福へ向かって生きよと後押ししてくれたのだ」と感謝に変わるのではないでしょうか。
また、あなたが絶対の幸福になられることこそ、亡くなったお母さまが一番望むことであり、お母さまへの恩返しになるのだと仏教では教えられます。
追善供養にはどんな意味があるの?
亡くなった方をしのび、お仏前にご飯やお水をお供えしたり、お経や念仏を称えている方もあることでしょう。これらを一般的には「追善供養」といわれます。
ある時、追善供養についてこんなお電話をいただきました。
「教えて欲しい事があります。
追善供養をする事によって死んだ人はどうなるのでしょうか。
親、家内を亡くしていますが、念仏を称えないで死んだとなると死後はどうなっているのでしょうか。」
亡くなった人はどうしているのだろう?という疑問は、身近な人との死に接すれば誰しも抱くことだと思います。
それが、大恩ある親や、長年連れ添った伴侶、可愛いわが子ともなれば、亡くなった後に苦しんでいないか、残された私にできる供養はあるのかと真剣に悩まれるのも当然だと思います。
亡くなった人への真の供養
仏教では、亡くなった人の供養についてこう教えられています。
ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、六道(苦しみの絶えない6つの世界。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界をいう)四生(一切の生物のこと)のあいだ、いずれの業苦(ごうく)に沈めりとも、神通方便をもってまず有縁(うえん)を度(ど)すべきなり、と云々(『歎異抄第5章』)
(現代語訳:ただ、はやく本願を計ろう自力の心を捨てて、浄土で仏のさとりを開けば、どんな六道・四生の迷いの世界で、苦しみに沈んでいようとも、仏の方便力(仏が苦悩の人々を、真実の幸福に導く力)で縁の深い人々から救うことができよう、と聖人は仰せになりました)
すでに世を去った人たちの中には、浄土に往生している人もあるでしょうが、仏縁に恵まれず、苦しみ迷いの世界でさまよっている人も大勢ありましょう。
だが、たとえどのような苦界にいても、今生きている私が真剣に仏法を聞いて絶対の幸福になれば、来世は浄土で仏となり、その神通力(人間の考えの及ばぬ、霊妙自在の力)をもって、いかなる世界にいる人をも真実の幸福に導き、本当の幸せに救うことができるのです。
ご質問をいただいた男性にも、歎異抄第5章のお言葉を説明し、大変喜ばれていました。
「死んだ人は助かっていなくても、私が仏になって一番縁のある人のもとへ行って、真実の幸福に導き、助ける事ができるんですね。」
亡くなった親や妻を助けたいとの思いから、この方は続けて仏法を学ばれています。
さて、仏教に関心が出てきても、教えを知るとなると現代はなかなかにハードルが高いようです。
よくお聞きするのは、
「寺とのつながりがあまりない」
「仏教の専門書は難しくて読む気がしない」
「寺に行っても法話がない」
「ちょっと関心が出てきただけだから」
などです。
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仏教の教えを通して少しでも悲しみが癒されますよう念じております。
九条えみ
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