亡くなった人のお墓参りと生きている人のお墓参り
お盆が近づくと追悼法要の案内がやってきます。
案内を受け取ると亡くなった人を思い出し、親ならば、もっと生きている時に孝行しておけばよかった。
友人ならば、もっと話しておけばよかったなどと亡くなった人を思い出し、悲しい気持ちになります。
親しい人を亡くした人はそれが親であれ、子であれ、恋人であれ、この気持ちをどうしたらいいかと思い悩む日々が続くのではないでしょうか?
二度と会うことはできない悲しみをお墓参りに行くことで慰めているのかもしれません。
今回はお墓参りについて考えてみたいと思います。
お墓参りに行く心境
葬儀が終わり、49日法要が終わると亡くなった人の遺骨を墓に納めます。
亡くなった人の遺骨を納める時、墓石を開き、中を見ることになります。
私も父が亡くなった時、墓石を開き、お墓の中を初めて見ることになりましたが、亡くなった人、一人一人の骨壺が納められていました。
名前の書かれた骨壺を見ると亡くなった人を思い出します。
しかし、どれだけ思い出してみても亡くなった人が生き返るわけではありません。
生きている時に十分尽くすことができなかった後悔からせめてお墓参りだけでも毎年欠かさず行こうと決意する人も少なくないのではないでしょうか?
亡くなった母の姉(私の伯母)は母が亡くなってから25年、毎年欠かさず、命日に母の遺骨が納められている墓にやってきて、お墓参りをして帰っていきます。
最初は連絡がありましたが、今は連絡がなくても命日にはお墓参りをしているようです。
なぜなら、毎年、命日にはお花が墓に供えられているからです。
母の姉は、亡くなった母を特にかわいがっていたのでしょう。
亡くなった私の母を思い出し、墓前で手を合わせているのかもしれません。
大切な人を亡くした悲しみは何年経っても癒されることはないのでしょう。
どうして毎年お墓参りをするの?
仏教は嫌いだと言っていた父も母が亡くなった時は盛大な葬式をし、毎年欠かさず、お墓参りをしていました。
墓前に座り、南無阿弥陀仏と刻まれたお墓に向かって手を合わせる父の姿は神妙でどこか悲しげであったことを思い出します。
学生時代そんな父に
「仏教が嫌いだと言いながら、どうして毎年お墓参りをするの」
と聞いたことがありましたが、父は
「母を亡くしたことが悔しいから」
と語りました。
親しい人を亡くしたやり場のない悲しみは亡くなった後、せめてお墓参りだけでもという気持ちになるのでしょう。
お墓参りしても亡くなった人が生き返るわけではありませんが、やらずにおれない気持ちが起きてくるのが人間の深い業なのかもしれません。
日頃、仏教が嫌い。仏教は弱い人間がすがるものだと主張している人であっても、大事な人を亡くしてしまった時、求めるものは最後仏教なのでしょう。
父は晩年、浄土真宗の教えを聞いていました。
妻を亡くし、毎年、欠かさず仏事を行なっていたことが縁で嫌いだと話していた仏教の教えを聞くことになったのではないかと思います。
お墓参りは亡くなった人の為だけではない
お墓参りは亡くなった人を思い出す機会でもありますが、それだけで終わらせていいのでしょうか?
亡くなった人をどれだけ思い出し、お墓参りをしても亡くなった人が生き返るわけではありません。
それどころか、お墓参りをしている私もいつまでも亡くなった人を思い出し、お墓参りできるかわからないのです。
昨年、お墓参りに一緒に行った家族が、今年のお墓参りの時にはもういないというご家族は一組や二組ではないでしょう。
今年はお墓で亡くなった人を思い出していた人が、来年は自分がお墓参りに来た家族に思い出される人になるかもしれないのが人の世ではないでしょうか?
いつまでもお墓参りできるわけではないのです。
そう考えると、慌ただしい日常から離れ、静かに墓前にぬかずく時、亡くなった人を思い出すだけでなく、自分もやがて死んでいかねばならないことを自覚する得難い機会がお墓参りなのでしょう。
まとめ
亡くなった人を縁に我が身の無常を見つめ、人生でなさねばならないことに全力を挙げることが亡くなった人が喜ぶお墓参りになのでしょう。
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ヒロ☆カズ
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