突然亡くなった知人が教えてくれたこと|次の瞬間に終わる命で何をするか
こんにちは。こころの悩みサポーターのこうへいです。
先日、以前お世話になった方の訃報を耳にしました。
友人の運転する車に乗って出かけた帰りに交通事故にあったとのことでした。
その知人が乗っていた車が高速道路を走っていた時に、後ろから走ってきたトラックに追突され、側面の壁に激突し、胸を強く打ったことが死因だそうです。
その日の夕方までは元気だった人が、突然この世を去ってしまう、悲しく厳しい現実を見せつけられたように感じました。
突然のことに私もすごくショックを受けましたが、ご家族や友人など私よりもより身近に接してこられた方の悲しみはとても言葉にならないものがあったと思います。
私はその知人と接した時間は短かったのですが、まだ若い私を慈しみ導いてくださるような方でした。
その方を偲ぶとき、私はその方に恥じない生き方をしているかを問わずにおれません。
そこで今回は、その知人が最後に自らの姿をもって教えて下さったことを見つめてみたいと思います。
誰しも次の瞬間に命が終わる
「人生には終わりがある」、「限られた人生だ」と言っていても、年を取って身体が衰えて、病気になって死んでいくのだろうと想像するかもしれません。
「やがて死ぬ」と聞いてさえ、もうしばらくは生きられるような印象を持つのではないでしょうか。
しかし、実際は若くて元気だった人が、次の瞬間に人生の終わりを迎えることがあるのです。
親鸞聖人のひ孫の覚如上人(かくにょしょうにん)は、このように書かれています。
一切衆生のありさま、過去の業因まちまちなり、また死の縁無量なり、病におかされて死する者もあり、剣にあたりて死する者もあり、水に溺れて死する者もあり、火に焼けて死する者あり、乃至寝死する者もあり、酒狂して死するたぐいあり。
これみな先世の業因なり。さらにのがるべきにあらず。
『執持鈔(しゅうじしょう)』
死の縁は無量ですから、どんな時にどんなことで死ぬかは分からないということです。
どれだけ用心深く、注意を払っている人でも死の縁のすべてを避けることは不可能です。
私は石川県の輪島市に知り合いがいるのでたまに会いに行くことがあります。
その途中に山道を通るのですが、そこに“落石注意”との看板が立っています。
しかしいくら落石注意と言われても、上から石が落ちてくるのですから、さけられない落石も多いでしょう。
私の友人は、歩道を歩いていた時に、ハンドル操作を誤ったのか、いきなり車が歩道に突っ込んできて車にはねられたことがあったそうです。
幸いにその友人は骨折で済みましたが、その事故で命を落としていたかもしれません。
どれだけ注意をし、死の縁を避けようとしても、逃れられないものがあまりにも多いようです。
今死ぬとなったら、明かりになるものは何なのか
「何の前触れもなく、次の瞬間に人生が終わるかもしれないだって?そんなことを考えたって仕方がないのではないか」と思われる方もあると思います。
考えてもらいたいのは、今死んでいかねばならないとなった時に、「自分の人生は何だったのか」と悔いを残すのは悲しくないだろうかということです。
誰もが、「人間に生まれてきてよかった、このための人生だったのか」という今死ぬとなっても揺るがぬ幸せになりたいのではないでしょうか。
最後に後悔する生き方を望む人はいないはずです。悔いなき人生にしたいと願っているのではないでしょうか。
それには、次の瞬間にも人生の終わりがやってくるという事実を見なければならないでしょう。
「やりたいことをやろう」と言う、やりたいことって?
よく「限りある人生だから、自分のやりたいことをやろう」とか「自分の心に正直に生きたい」ということを耳にします。
自分の本当にやりたいことができればいいと思いますが、自分の本当にやりたいことは何なのでしょうか。
やりたいことと一口に言っても、やりたいことは常に変わります。
子供の頃に本気でやりたいと思っていたことでも、大人になると興味がなくなったという経験はありませんか?
時間が経って考え方が変わると、今大事だと思っているものでも、つまらないことに変わってしまうかもしれません。
今この世を旅立っていくとなった時でも、「これを果たすための人生だった」と揺るがぬ幸せになるには、何をしたらいいのか。
この問いかけは簡単な問いではないのかもしれません。
また、自分の心に正直に生きたいと言っても、その自分の心を私自身がよく分かっているのでしょうか。
「本当の自分とは何か」
これは「汝自身を知れ」と古代ギリシアから言われてきたように、多くの哲学者も挑んだ深い問いかけです。
まとめ
事故で突然亡くなった知人が最後に教えてくれたことは何だったのかを見つめてみました。
最初にも述べましたが、お世話になったその方を偲ぶとき、私はその方に恥じない生き方をしているかを問わずにおれません。
年齢も性格も健康状態も関係なく、どんな人にも次の瞬間に死が迫っているのが、私たちの命の実態です。
今死ぬとなっても、「人間に生まれてきてよかった、このための人生だったのか」と言い切れる揺るがぬ幸せになってこそ、悔いなき人生になるのではないでしょうか。
仏教では
無常を観ずるは菩提心(ぼだいしん)の一(はじめ)なり
(次の瞬間に迫る自らの死をありのまま見つめることは、変わらぬ幸せになる第一歩である)
と教えられています。
人生の実態を見つめて、一度きりの人生を悔いなき人生としたいものです。
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