夏は亡き人を偲ぶ季節に|親鸞聖人の説かれる亡き人の喜ぶ供養とは
こんにちは。こころの悩みサポーターのこうへいです。
夏と言えば、海にキャンプに花火大会と楽しいことが目白押しです。
個人的には長岡の花火大会を見に行きたいなと思っています。
夏の季節に忘れてはならないのは、お盆ではないでしょうか。
普段は仕事で忙しくても、お盆の時期には亡くなった親や家族、友人を偲ぶ人も多いと思います。
今は亡き大切な人を思う時、誰しもが亡くなった人のために自分ができることは何だろうかと考えるのではないでしょうか。
お経を読むことが亡き人の喜ぶことなのか
年忌法要を勤めたり、墓参りをして好物を供えるのも、そうすれば亡くなった人が喜ぶと思ってのことだと思います。
お仏壇に向かってお経を読んだり、浄土真宗の方ならば正信偈をあげるのも、亡くなった人のためになると思ってのことでしょう。
読経や法要が亡くなった人の最も喜ぶことだというのが、社会の常識になっています。
ところが、お釈迦さまも親鸞聖人も、亡くなった人の最も喜ぶことは読経や法要ではないと教えられています。
そのことを教えられた親鸞聖人のお言葉が有名な古典『歎異抄(たんにしょう)』に記されています。
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず (『歎異抄』第5章)
親鸞は、亡き父や母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて称えたことがない。
一度の念仏さえも称えたことがないと仰っておられるのですから、読経したり、仏像を彫ったり、お墓を造ったりしたことがないということです。
亡くなった人の最も喜ぶことが読経や法要ならば、親鸞聖人は亡くなったご両親のために読経や念仏に励まれたことでしょう。
ところが、そうされていないということは、亡きご両親の最も喜ばれることが他にあるということです。
「私が死んだら川に捨ててくれ」親鸞聖人の意外なお言葉
これは、親鸞聖人が自分が死んだらこうして欲しいと常に言われていたお言葉からも、うかがい知ることができます。
親鸞閉眼せば賀茂河に入れて魚に与うべし (『改邪鈔(がいじゃしょう)』)
親鸞、死ねば鴨川(京都市内を流れる川)に捨てて魚に食べさせよ
このお言葉もビックリするようなお言葉だと思います。
「なぜこんなことを仰ったの?」とみんな思うと思います。
この親鸞聖人のお気持ちを、ひ孫の覚如上人(かくにょしょうにん)はこう教えられています。
この肉身(にくしん)を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり (『改邪鈔(がいじゃしょう)』)
肉身は肉体のことですから、葬式や墓などの肉体をどうするかということよりも、仏法の信心が最も大切だと仰っておられるということです。
仏法の信心とは、信心獲得(しんじんぎゃくとく)と言われ、仏法を聞いて変わらない幸せになったことを言われています。
この親鸞聖人のお言葉は、肉体の後始末よりも、仏法を聞いて変わらない幸せになることこそが最も急がねばならないことを教え示されているお言葉だと覚如上人は説き明かされています。
そしてこれは亡くなった人が残された私たちに何を願い望んでおられるかということでもあります。
親鸞聖人が私たちに望む変わらぬ幸せとは
親鸞聖人は、ご自身が変わらない幸せになられたことを『正信偈(しょうしんげ)』の冒頭に仰っておられます。
帰命無量寿如来 南無不可思議光(きみょうむりょうじゅにょらい なむふかしぎこう)
正信偈は親鸞聖人ご自身のことを書かれたものですから、
「親鸞は無量寿如来に帰命いたしました。親鸞は不可思議光に南無いたしました」ということです。
「無量寿如来」と「不可思議光」は、どちらも阿弥陀如来の別名です。
「帰命」と「南無」も同じ意味で、「救われた」「助けられた」という意味です。
ですから正信偈の最初の2行は
「親鸞は、阿弥陀如来に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀如来に助けられたぞ」
と、言葉を変えて、変わらない幸せになったことを繰り返し書かれています。
そして『正信偈(しょうしんげ)』の一番最後にはこう仰っておられます。
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説(どうぞくじしゅうぐどうしん ゆいかしんしこうそうせつ)
「道俗時衆、共に同心し、唯、この高僧の説を信ずべし」と読みます。
「道俗時衆」とは、すべての人のことです。
「すべての人よ、ともに親鸞と同じ心になってくれよ。それには、ただ、この高僧の教えを信じる一つしかないのだよ」
とおっしゃったお言葉なのです。
親鸞聖人が私たちに望んでおられることは、親鸞と同じ変わらない幸せになってもらいたいということだったことが知らされます。
亡き人が望むことは私の幸せ
亡くなった私たちの家族や大切な人たちが私に何を望むかを考えてみても、私たちに幸せになってもらいたいということでしょう。
私も祖母を昨年亡くしましたが、亡くなる直前まで私のことを案じてくれていました。
「仕事は順調か、ちゃんと食事はしているのか」と見舞いに行くたびに心配してくれました。
私が幸せになってこそ、亡き祖母が喜び、受けた恩に報いることになると思います。
まとめ
毎日、忙しい忙しいと過ぎてゆきます。
先日テレビで放送されていたある妖怪のアニメでは、取り憑(つ)いた人間を忙しくする“いそがし”という妖怪が、「現代人は忙しくなり過ぎて取り憑く間もない」と嘆いているシーンがありました。
妖怪が取り憑く間もないくらい、忙しい忙しいと時間が過ぎているようです。
夏は亡き人を偲ぶ機会が増えます。
亡き人を偲ぶと共に、亡くなった人に喜んでもらえるような変わらない幸せに、自分はなっているかを振り返ってみてはいかがでしょうか。
そして、変わらない幸せを教えられた仏法を聞くご縁としてもらいたいと思います。
こうへい
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