美人でも幸せになれない?|楊貴妃の悲劇と妻を亡くした玄宗の悲しみ(後)
こんにちは、暮らしを良くする研究家のこんぎつねです。
前回の記事美人でも幸せになれない?|楊貴妃の悲劇と妻を亡くした玄宗の悲しみ(前)では、楊貴妃が玄宗の側室となり、玄宗から大変深い寵愛を受けたことから楊貴妃の一族が朝廷内で台頭し、宮中で権勢をふるい、賄賂で蓄えた財産で贅沢にふけったことを紹介しました。
しかしそのようなことも長くは続きませんでした。
今回の記事は、楊貴妃が玄宗から死を賜った理由とその前後の状況についてのお話です。
安史の乱
玄宗から楊貴妃と楊一族が寵愛を受けていたその時、楊国忠(ようこくちゅう)と権力を二分していたのが軍人の安禄山(あんろくざん)です。
安禄山はサマルカンド(現在の中央アジア、ウズベキスタンの都市)の出身で元は通訳でしたが、腕が立ち、勇猛で、人に取り入るのが巧みだったため玄宗に気に入られて出世します。
もっと玄宗に気に入られようと、あるとき安禄山(あんろくざん)は楊貴妃の養子になりたいと申し出ました。
安禄山「楊貴妃様!私をあなたの養子にしてください!」
楊貴妃「えっ!えっ?ええっ!?」
ときっと驚いたことでしょう。
なにしろ楊貴妃のほうが14歳も歳下なのです。
しかしそれが許されて、安禄山は楊貴妃の息子となりました。
安禄山は玄宗の機嫌を取るのがうまく、贈り物を何度も贈り、バカのフリをして笑い者になり、体重200kgの巨漢でありながら玄宗の前で軽やかに舞を踊り、「そのデカい腹には何が入っているのか」と玄宗から聞かれたときには「陛下への忠誠心一つです」とお世辞を言い、楊貴妃の赤ちゃんを演じておむつをして揺り籠に入った状態で玄宗に謁見して喜ばれました(そんなので喜ぶなよと思いますが、それほど安禄山は気に入られていたのです)。
安禄山(あんろくざん)に対する寵愛が過剰であることを諌める人も多く、謀反を疑う声も度々上がったのですが、玄宗は「必無異志(反意などあるはずがない)」と言って、それらをすべて無視しました。
気に入らないのは楊国忠です。
楊国忠と安禄山は玄宗の寵愛を巡って仲が悪くなり、楊国忠は安禄山の悪口を吹き込んだり、昇進を妨害したりしました。
范陽、平盧、河東(中国の右上一帯)を拠点とする安禄山は、常に玄宗の近くにいる楊国忠と比べて楊国忠のほうが玄宗から信頼されるようになり自分の立場が失われることを恐れ、755年11月に「逆賊・楊国忠を討て」との勅命が下ったとして挙兵しました。
これを安史(あんし)の乱と言います。
安禄山の軍は強く、唐軍は権力争いや責任逃れの仲間割れがあったことも相まって敗れ続け、ついに安禄山軍は長安の都に迫りました。
楊貴妃に死を賜る
身の危険を感じた玄宗は家族、楊一族および側近と一緒に近衛兵を伴って長安を脱出して蜀(しょく:現在の四川省)へと逃亡します。(長安~蜀は東京~広島くらいの距離があります)
しかし途中の馬嵬(ばかい)というところで、兵士たちの不満が爆発します。
「俺たちがこんな目に遭っているのは楊国忠のせいじゃないか!楊国忠を殺してしまえ!」
と反乱が起き、楊国忠と楊貴妃の姉たちは殺されてしまいました。
しかしまだ兵士たちの怒りは収まりません。
「禍(わざわ)いの元がまだ残っているぞ!」
と殺気立ちます。
玄宗は
「楊貴妃は後宮の奥にいたため、楊国忠の悪事を知る由もない。だから助けてやれんか」
と懇願しますが、側近の高力士(こうりきし)は
「楊貴妃様が無罪なことは私もよく知っていますが、楊国忠殿が殺された今、楊貴妃様が陛下の側にいれば兵士たちの心は穏やかではいられないでしょう。どうか兵士たちの心を案じてくださいませ」
と勧めます。
あきらめた玄宗はついに楊貴妃に死を賜ります。
楊貴妃は高力士によって仏堂で縊殺され、遺体は紫の衣に包まれて埋められました。享年38歳でした。
その後唐軍とウイグル軍、さらに玄宗の息子・李亨(りきょう)の働きや、安禄山が糖尿病で体調が悪化して失明し、後継者問題で次男の安慶緒(あんけいしょ)に暗殺されたことなどにより、8年で安史の乱は収束しました。
長安に戻った玄宗は楊貴妃が使っていた香囊(こうのう)を見て涙を流し、画家に楊貴妃の絵を描かせて朝夕眺めていたと言います。
長安に戻って5年後の762年4月に、玄宗は亡くなりました。
安史の乱によって唐王朝は威信を失い、皇帝の言うことを聞かない家臣が増え、家臣どうしや軍部の権力争いが激しくなり、外国にたびたび領土を奪われ、反乱が各地で相次ぎ、過去の栄光を取り戻すことなく衰退し続けて907年に滅びました。
楊貴妃の死から151年後のことでした。
玄宗が楊貴妃に耽溺したことが唐滅亡の原因になったとして、楊貴妃は「傾国の美女」と呼ばれるようになりました。
有無同然
現代でも女性は美しさを求め、男性は権力を求めます。
男性は美人と一緒になりたいと思い、女性はお金持ちと結婚したいと思います。
男性も女性も財産やお金を欲しがり、美食を楽しみます。
自分が苦しいのはそういうものがないからで、それらがあれば幸せになれる。
そう思ってどこまでいっても満足せず、日々必死に求めていますが、希代の美女・楊貴妃はその美しさゆえに命を縮め、皇帝の地位にあった玄宗は安禄山(あんろくざん)により地位も愛する人も奪われ、遊び人から宰相に昇った楊国忠(ようこくちゅう)は人々の恨みを買って殺され、安禄山は美食が元で糖尿病になって失明し、最後は身内に暗殺されました。
彼らの中で誰が幸せな一生を送れたと言えるでしょうか。
私たちが「これがあれば幸せになれる」と思っているものを持っていた人たちがことごとく不幸になっているのを見ると、幸せとはどうすれば手に入るのか分からなくなります。
仏教を説かれたお釈迦さまは
「世人薄俗(はくぞく)にして共に不急の事を諍(あらそ)い(中略)尊と無く、卑と無く、貧と無く富と無く、少長男女共に銭財を憂う。有無同じく然り。憂き思い適(まさ)に等し。(中略)田有れば田を憂え、宅あれば宅を憂う。牛馬、六畜、奴婢(ぬび)、銭財、衣食、什物(じゅうもつ)、復た共に之を憂う」
(世の中の人は薄っぺらで俗っぽい生き方をしており、急ぐべきことでないことを先を争って求めている。身分が高い人も、低い人も、貧乏な人も、金持ちも、若い人も、老人も、金や財産のことで苦しんでいる。何を持っていても持っていなくても苦しんでいることに変わりはない。苦しい思いは同じである。
田んぼや家を持っている人は持っていることで、持っていない人は持っていないことで苦しんでいる。家畜、召使い、財産、服、食べ物、家具などについても同じである)
と言われています。
楊貴妃を巡る騒動はこの言葉を実感させます。
まとめ
楊貴妃は元は当時の唐の皇帝・玄宗の息子のお嫁さんでしたが、ちょうど妻を亡くした玄宗に見初められて玄宗の妻となりました。
玄宗は常に楊貴妃と一緒に行動し、深く愛していました。
そのとき玄宗の下では楊貴妃の親戚の楊国忠(ようこくちゅう)と安禄山(あんろくざん)が権力争いをしており、楊国忠に対する玄宗の信頼が自分より篤くなるのを恐れて安史の乱と呼ばれる反乱を起こしました。
これにより長安を追われた玄宗と楊貴妃一族は蜀(しょく:現在の四川省)へと逃亡しますが、その途中で兵士たちが反乱を起こし、楊貴妃を始め楊一族はことごとく殺されてしまうのでした。
楊貴妃の死を聞いた安禄山(あんろくざん)は大変悲しんだそうです。
多くの女性が求める美を手に入れた楊貴妃も、多くの男性が求める地位や権力を手にした玄宗や楊国忠も、幸せにはなれませんでした。
お釈迦さまは
「持っている者も、持っていない者も、みな苦しんでいることに変わりはない」
と仰っています。
こんぎつね
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