美人でも幸せになれない?|楊貴妃の悲劇と妻を亡くした玄宗の悲しみ(前)
こんにちは、暮らしを良くする研究家のこんぎつねです。
あなたは玄宗と楊貴妃をご存じでしょうか。
「玄宗は知らないけど楊貴妃は知ってる」
「玄宗は知らないけど楊貴妃って世界三大美人の一人でしょ」
「玄宗は知らないけど楊貴妃を知らない人なんていないよ」
という方が多いかと思います。(玄宗…)
楊貴妃を題材にした映画やドラマは今でも盛んに作られており、題名も「楊貴妃」と必ず入っています。
一方で「玄宗」という名前の映画やドラマはほぼ無いようです。
「玄宗?知ってるよ。楊貴妃の旦那さんだよね」
正解です。
普通は「側室の旦那が皇帝」という言われ方ではなく、「皇帝の側室が○○」と言われるのですが、玄宗と楊貴妃では知名度が違いすぎますね。
それほど有名な楊貴妃ですが、玄宗によって死を賜り、非業の死を遂げたことはあまり有名でないようです。
2人の間に一体何があったのでしょうか。
楊貴妃への寵愛ぶり
楊貴妃についての記述は
『旧唐書』巻五十一 列伝第一 后妃上 玄宗楊貴妃
『新唐書』卷七十六 列伝第一 后妃上 玄宗貴妃楊氏
『資治通鑑』巻第二百一十五 唐紀三十一~巻第二百一十八 唐紀三十四
に書かれています。
詳しいことを知りたい方はこちらをお読みください。
他にも楊貴妃については『長恨歌』『梅妃伝』『明皇雑録』『楊太真外伝』など多くの書物に載っていますが、伝説が収録されているものもあり、正しく史実を伝えているかわからないため本記事では参考にしませんでした。
玄宗は以前リーダーになった人が陥る10の罠とは?|貞観政要に学ぶリーダー論の記事で紹介した太宗の曾孫にあたる人です。
太宗から玄宗の間は、太宗の息子の嫁にあたる武則天が政治を牛耳り、中国史上唯一の女帝として君臨して宮中が混沌とした時代ですが、武則天の死後、彼女が採用した人物によって玄宗の治世は安定し、開元の治(かいげんのち)と言われる唐の最盛期を創出しました。
しかし安定した世の中が20年以上続いた結果、玄宗は政治に飽きて政務が面倒になり始めます。
さらに玄宗が52歳のときに最も愛した武恵妃(ぶけいひ)が亡くなり、すっかり落ち込んで生きる気力がなくなってしまいました。
そんなとき、ある人が玄宗に「美人がいる」と推薦しました。
それが楊玉環、後の楊貴妃でした。
しかし楊玉環について調べてみると、なんと武恵妃との間に生まれた息子・李瑁(りぼう)の妻、つまりは義理の娘ではありませんか。
(義理の娘を「美人がいますよ」と推薦した人は何を考えているんでしょうか)
義理の娘を側室にするわけにもいきませんので、一旦出家させて世俗と離れさせてから側室にするという離れ業を行い、楊玉環は貴妃の位に就きました。
貴妃とは皇帝の奥さんの中でも正室の次に偉い地位です。
ですから楊貴妃は名前ではなく「楊さんの家の貴妃の立場にある女性」という意味です。
楊貴妃については「姿質豐艷,善歌舞,通音律,智算過人(『旧唐書』)」「善歌舞,邃曉音律,且智算警穎,迎意輒悟(『新唐書』)」と史実に書かれており、美人で、スタイルが良く(あるいは豊満で)、舞や歌が上手く、音楽に通じていて、とても賢く、相手の気持ちに敏感な女性だったようです。
玄宗も自分で作曲するほど音楽が好きだったので、楊貴妃とは気が合ったことでしょう。
玄宗の楊貴妃に対する寵愛はとても深く、玄宗が出かけるときは連れていかないことがなく、楊貴妃専属の刺しゅう職人は700人おり、アクセサリー職人も数百人いました。
また楊貴妃はライチが好きで、楊貴妃がライチを欲しがると1500km離れた中国の南端にある嶺南から馬によるリレー式で運ばせたそうです。(今日この逸話を元にした「楊貴妃」という名前のライチのカクテルがあります)
それほど寵愛されたため、楊貴妃はだんだん人を妬み、気性が荒くなり、思い上がった態度を取るようになりました。
玄宗はそれに怒って宮中から追い出してしまいますが、楊貴妃がいないとイライラして、食事を摂らず、従者をムチで叩きだしました。
そこで家臣が楊貴妃を呼びに行き、楊貴妃が伏して謝ると玄宗の機嫌はたちまち直り、今まで以上に楊貴妃を可愛がるようになりました。
しばらくしてまた楊貴妃が玄宗を怒らせてしまい、宮中を出されますが、楊貴妃は
「私が陛下を怒らせてしまった罪は万死に値しますのに陛下は私を殺さず帰れとおっしゃいます。私はここから離れたいと思います。何もかも陛下からの頂きものばかりで自分のものはありませんのでお詫びの品を贈ることはできません。せめて父母より与えられた髪を贈り、私の誠意を示しとうございます」
と言い、髪を切って玄宗に贈ったため、玄宗は驚いて楊貴妃を呼び戻し、よりいっそう仲良くなりました。
楊貴妃は太っていた?
楊貴妃は例えばこちらの映画「楊貴妃 Lady Of The Dynasty(原題:王朝的女人·杨贵妃)」のようにドラマや映画ではスラリとした美人が演じています。
楊貴妃死後50年後に白居易によって作られた『長恨歌』には「白い肌」「雲のような髪」「花のような顔」「芙蓉の如く顔に柳のような眉」と書かれており、映画でもドラマでもこのような楊貴妃像にあった女優さんが充てられています。
しかし実は意外と太めだったのではないかという話があります。
楊貴妃の外見については信用できる詳しい記述がないので推測するしかないのですが、楊貴妃を描いた壁画や唐代の美人の条件からするとけっこう豊満だった可能性があります。
一方で楊貴妃を見て作られた李白の詩には「牡丹のようだ」とか「飛燕(華奢な美人で有名な前漢の女性)のようだ」と歌われているのでやっぱりスレンダーな美人だったのかもしれません。
楊一族の権勢
玄宗は楊貴妃だけでなく、楊貴妃の一族を高い位に就かせました。
最たるものが楊貴妃の又従兄の楊国忠です。
楊国忠は小さい頃から勉強嫌いで、酒を飲んで博打を打ってばかりいた一族の嫌われ者だった人ですが、楊貴妃の姉と関係があったために玄宗に謁見する機会ができ、気に入られて役職が与えられました。
博打好きだったことが功を奏して、経理、計算のミスを起こさなかったそうです。
楊貴妃の姉を使って玄宗の機嫌を探って調子を合わせたため、「デキるヤツ」と思われ、出世を重ねて宰相にまで上り詰めて権勢を振るいます。
楊一族は新しい豪邸をいくつも建ててその豪勢さを競い合ったり、三千万疋もの絹をためこんだりと贅沢の限りを尽くしました。
宮中を掌握した楊貴妃の一族の家には賄賂を持ってくる人や、玄宗からの贈り物を持ってくる人で絶えなかったと言われます。
こうして玄宗の寵愛を深く受けた楊貴妃と楊一族ですが、その繁栄も長くは続きませんでした。
やがて政変が起こり、楊貴妃は玄宗によって死を賜ります。
一体何が起こったのでしょうか。『美人でも幸せになれない?|楊貴妃の悲劇と妻を亡くした玄宗の悲しみ(後)』に続きます。
こんぎつね
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