「lemon」に流れる無常観|より深い解釈のための仏教の視点(後)
前回の「「lemon」に流れる無常観|より深い解釈のための仏教の視点(前)」では「lemon」は亡くなった人へ生きている人が伝えたいことを歌った曲として、蓮如上人の「白骨」という文章を通して見てみました。
今回はその逆に、「lemon」を亡くなった人が生きている人に伝えたいことを歌った曲だとして、仏教を通して考えてみたいと思います。
「lemon」を逆再生すると?
「lemon」の映像は初めは静かな様子で始まります。
踊っている女性も最初は静かで、外国の方々も静か、米津さんも静かです。
それが曲の後半になるにつれてだんだん静→動となり、動きが激しくなります。
私はこれを見て、大事な人が亡くなったとき、初めは信じられず、受け入れられなかった。それがだんだんと受け入れられるようになり、同時に悲しみや苦しみが溢れてきた、というような印象を受けました。
「lemon」にはアメリカでは欠陥品、不完全な人というスラングがあります。
レモンは見た目はキレイな黄色でおいしそうなのに、実際にはすっぱくてとても食べられたものではないことから「見た目ではわからないけれど、中身が悪いもの」を「lemon」と呼ぶようになったのだそうです。
いつも一緒にいて、いつまでも一緒にいられると思っていた人が突然いなくなってしまい、心に穴が空いてしまった身が削られるような悲しみを「lemon」と表現しているように思います。
一方で、亡くなった人が生きている人に歌っているとしてこの映像を逆再生すると、最初は生きている人の近くにいた亡くなった人が「わたしのことなどどうか 忘れてください」とだんだん遠ざかっていくように見えます。
動→静の流れで、亡くなったときは近かった2人がだんだん離れていくような印象です。
もしも亡くなった人が生きている人に願うことがあるとしたら、一体何を願うでしょうか。
亡くなった人が願うこと
亡くなった人が生きている私たちに願うことは、亡くなった人の霊を呼び出してみなくても、「もし自分が死んだらどうだろう」と考えてみればわかります。
おそらく「自分は死んでしまったけれど、残ったあなたは幸せに生きてほしい」と相手の幸せを願うのではないでしょうか。(「あたしはゆうれい」もそんな感じですよね)
私の祖父は3年前に亡くなったのですが、葬式のときの祖母は異常なほどの悲しみようでした。
それまでにも何度か身内や知人の葬式に出たことはありますが、その中でもあれほど悲しんでいる人は見たことがない、というぐらいにずっと首を垂れて声をあげて泣いていました。
普段は自分の足でちゃんと歩いている祖母ですが、そのときは立つことすらままならないためずっと車イスに座ったままでした。
出棺のときに最後のお別れをしたのですが、そのときも「顔を見るのが辛いからお別れしたくない」と棺(ひつぎ)に近づこうとしなかったのを、祖父の兄嫁が「そんなこと言ったらあかん!最期にきちんとお別れしなあかん!」と無理に花を棺(ひつぎ)に入れさせたほどでした。
その後もずっとふさぎ込み、母と叔母が交代で泊まりに行ってめんどうを見ていました。
もしも祖父がその様子を見ていたらどう思ったかと考えますと、やはり「死んだワシのことでそんなに悲しまんでくれ。おまえは残りの人生を幸せに生きてくれ」と願ったように思います。
幸せな人生を生きるために
以前弊社発行の仏教小冊子「とどろき」でこのような文章を掲載しました。
仏教を説かれたお釈迦さまも、親鸞聖人はじめ、歴代の善知識(ぜんぢしき:仏教の先生のこと)方も皆、ご自身に起きた種々(しゅじゅ)の無常(むじょう)か、自己の罪悪を縁に菩提心(ぼだいしん)を起こし、仏門に入られている方ばかりです。
生老病死(しょうろうびょうし)の逃れられぬ四苦(しく)に驚かれ、どうすれば解決できるかと、入山学道(にゅうせんがくどう)の身となられたのがお釈迦さまでありましたし、幼くしてご両親と死別され、「次は自分が死ぬ番だ。死ねばどうなるのか」と大きな疑問を抱かれ、九歳で出家されたのが親鸞聖人でした。
肉親や大切な人の死という現実を目の当たりにした時、誰もがそれまでの人生観を根底から崩されます。
心の傷を癒やす時間や慰(なぐさ)めが、必要になることもあるでしょう。しかし、いつまでもクヨクヨしてはおれません。
悲しみから立ち上がって、さあ、どちらに進むのか。それが残された私たちにはさらに大事なことであり、その方角を示しているのが仏教なのです。
死別の悲劇は、心地よくまどろんでいた我々の目を豁然(かつぜん)と人生に開かせ、真の幸福を教える仏教に向けさせる勝縁であります。また、そうすることが、亡くなった人の最も喜ぶことなのです。今晩とも知れない命だと無常を見つめることを仏教で「無常観(むじょうかん)」といいます。古来より、
「無常を観(かん)ずるは菩提心の一(はじめ)なり」
といい、諸行無常の現実をありのままに見よ。
はかない世と知らされ、必ず、「この一瞬の人生、やがて死ぬのになぜ生きる?」。生まれてきた意味や、永続する幸せを求めずにおれなくなる。
その心を「菩提心(ぼだいしん)」といい、これが人生を真に豊かにする大切な心だと教えられています。
いつまでもこの人と一緒にいて、いつまでも今のような日常が続いて、いつまでも生きていられる。
このまどろみが破られて「いつまでも生きていられるわけではない。必ず自分も死なねばならない」となったときに初めて「必ず死ぬのに何のために生きるのか?この人生でなすべきことは何か?やがて崩れ去って自分の元から離れていくものではなく、永遠に変わらないもの、崩れないものはあるのか?」と人生の意味を考えずにおれなくなります。
この心を仏教では菩提心(ぼだいしん)と言います。
お釈迦さまもこの問題を解決するために出家し、6年の修行の末に体得した「人が生きる意味」を後世の私たちに伝え残したものが今日「仏教」と言われる教えです。
「どこかであなたが今 わたしと同じ様な涙にくれ 淋しさの中にいるなら わたしのことなどどうか 忘れてください」
亡くなった人がこう願っているのならば、残された私たちはただ悲しむのではなく、大切な人の無常を縁に
「あなたが死を通して大事なことを教えてくれたから、私は今こんなに幸せになれた。『今でもあなたはわたしの光』だ」
と伝えられるようになること以上に亡くなった人を喜ばせることはないでしょう。
まとめ
「lemon」を生きている人から亡くなった人に向けて歌った曲と見ても、亡くなった人から生きている人に向けて歌った曲と見ても、共通するのは大切な人の死を縁に「やがて自分も死なねばならない」と知らされるところから明るく幸せな人生が開けるという点です。
「無常を観(かん)ずるは菩提心の一(はじめ)なり」
「lemon」をきっかけに無常に対して考えるようになれば、ただ聴いて「いい曲だなあ」と思う以上に「lemon」が大事な曲になると思います。
ちなみに米津さんって曲もいいですけどイラストも上手ですよね。
米津さんのイラストに憧れて
「もしかして練習すれば自分も描けるようになるんじゃ?」
と血迷ったときに書いたのがこちらの記事です。
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こんぎつね
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