「lemon」に流れる無常観|より深い解釈のための仏教の視点(前)

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こんにちは、暮らしを良くする研究家のこんぎつねです。

私は1人で作業するときに動画投稿サイトのYOUTUBE(ユーチューブ)で音楽を聴きながらすることが多いです。
先日も同じようにYOUTUBEで音楽を探していると「lemon」という曲に出会いました。

作曲したのは米津玄師(よねづけんし)さんという方です。
私が米津さんの曲に出会ったのは9年ほど前、まだ米津さんが高校生だった頃にニコニコ動画という動画投稿サイトに投稿したを聴いたのが最初です。

それからちょくちょく聴いていたのですが、その後プロデビューして今はオリコンの『2017ブレイクアーティストランキング』では、10代~50代の全世代で1位になるほどの大人気アーティストになっています。

「lemon」はTBS系列の石原さとみ主演のドラマ「アンナチュラル」の主題歌で、ダウンロード販売されるやいなや、オリコンのウィークリーランキングで発売初週での販売数記録を更新したり、YOUTUBE(ユーチューブ)に投稿して6日間で1000万再生を突破したりと凄まじい人気ぶりで、今も毎日多くの人に聴かれています。

「アンナチュラル」は法医解剖官の話で、それを請けて作曲された「lemon」も「死」をテーマとしています
また、米津さんはTwitterで「死に対する哲学を持ってないと生きることもままならない」とつぶやいたこともあり、「lemon」以外の曲でも音楽を作る上で死を重要視しているそうです。(アイネクライネ、ミラージュソングなんかモロに出ている気がします)

私は仏教の勉強をしているため、「lemon」を聴いていると仏教の無常観を思い出します。
「lemon」の歌詞や映像が何を表現しているのかについて多くの人が様々な解釈をしており、活発な意見が飛び交っています。
今回は仏教に説かれる無常観と、そこから派生して仏教から見た「lemon」の解釈について私釈を交えて少し話をしたいと思います。

「lemon」の要約

「lemon」の歌詞をまとめると以下のようになると思います。

亡くなったことがただ悲しいのではなく、それによって教えられたことがある。
あなたが伝えようとしたことのすべてはまだ理解しきれないけれど、いつか受け止めたいと思う。
あなたがいなくなったのはあまりに突然で、幸せはある日唐突に崩れ去ることを知った。
まだあなたの死を受け入れられないけど、あなたには笑顔で居てほしい。
いつか心の雨が晴れるときまで、あなたのことは忘れない。

歌詞には何度も「あなたは私の光」と出てきますが、そこからただ死を悲しむのではなくそれによって気付かされることがあるという明るい面もあることを歌っています。

では私たちが大事な人が亡くしたときには、どのようなことに気付くのでしょうか

白骨の章

米津さんが「lemon」を作曲しているときおじいさんが亡くなられ、そのため作詞しようとしても「あなたが亡くなって悲しい」としか出てこなかった時期があったそうです。
「アンナチュラル」の「死」を題材にしたストーリーと身内の不幸。
これらが合わさってできたのが「lemon」です。

こう聞くと、同じく人の死を縁に書かれた「白骨」という文章を思い出します。

今から500年前の室町時代に「蓮如」という僧侶が活躍しました。
当時廃れていた浄土真宗を再興したことから「蓮如上人」と尊ばれ、浄土真宗では祖師の親鸞聖人と共に尊敬されています。

その蓮如上人の教えを聞いていた人に青木民部(あおきみんぶ)という下級武士がいました。
民部には溺愛する年頃の娘がおり、身分の高い武士との縁談が決まっていました。
しかしこの娘さんが結婚式の朝に突然苦しみだし、あっという間に死んでしまったのです。
葬式後、火葬して残った娘さんの遺骨を見た民部は「これが愛娘の花嫁姿か」と嘆いてそのまま死んでしまい、民部も娘さんと同じ日に葬式が行われました。
娘と夫の2人を一度に亡くした民部の妻も次の日に愁(うれ)い死んでしまいました。

またそれとほぼ同時期に、別の蓮如上人の門徒も年頃の娘さんが急死しました。

無常の嵐の激しい様子を聞いた蓮如上人がこれを縁に書かれたのが、今日浄土真宗の葬式で読まれることが多い「白骨」です。

切々と語りかける無常観は聞くものの涙を誘います。

「白骨」の章の原文は以前の記事に上げていますので、今回は紙幅の都合で省略して意訳のみ記述します。
原文をお知りになりたい方はこちらの記事の後半に載っていますのでお読みください。
子供を亡くした悲しみを抱える人へ蓮如上人が書かれたお手紙

「白骨」の意訳

浮草のように不安な人生をよくよく眺めてみれば、人の一生ほどはかないものはありません。

生まれて大きくなり、やがて老いて死ぬ。
まさに幻のような人生です。

いまだ千年、万年生きたという人を聞かないでしょう。

人生長いようでも過ぎてしまえばアッという間の出来事。

百歳まで生きる人は稀(まれ)なのです。

自分が先で、他人が後です。
死ぬのは他人で自分はまだまだ後だ、と思っていますがとんでもない間違いです。

今日とも明日とも知れぬ、私たちの命。

雨の日、木の枝から滴(したた)り落ちる滴のように、毎日、多くの人が後生(ごしょう)へ旅立っているではありませんか。

朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なのです。

朝、元気に出かけた者が、事故や災害、突然の病気などで、変わり果てて帰ることも珍しくないでしょう。

ひとたび無常の風に誘われれば、どんな人も二度と目を開かなくなる。

一息切れたら、顔面は血の気を失い、桃の肌色はなくなってしまう。

「お願い、もう一度笑って!」
「目を開けておくれ!」

肉親や親戚が集まってどんなに泣き、悲しんでも、二度と生き返りません。

泣いてばかりもおれないから、火葬場に送って荼毘(だび)に付せばひとつまみの白骨が残るだけ……

死者を哀れんでいる者も、やがて同じ運命をたどるのです。

老いも若きも、関係なく、いつ死ぬか分からぬのが、人間というものです。

どうか皆さん、早く後生の一大事の解決を求め、阿弥陀仏に救い摂(と)られ、仏恩報謝の念仏する身になってもらいたい。

「あなた」が本当の「私の光」になるのは?

大事な人が亡くなって知らされるのは、人でも物でもどれだけ大事にしていても、しばらく一緒にいるだけで、すべてのものはやがて目の前からなくなるときが来るということです。
そしてそれ以上に気付かされることは、自分も同じようにやがて死なねばならないということです。

「自分が死んでいく?そんなこと考えたら暗い気分になるよ。『あなたは私の光』と歌っている『lemon』の歌詞に合わないよ」
そう思われるでしょうか。

仏教には「生死一如」という言葉があります。
「生死一如」とは「生きることと死ぬことは、紙の表と裏のように切り離せない関係(一如)である」ということです。

俗なたとえで言えば、夏休みと夏休みの宿題とは切っても切り離せない関係にあるようなものです。
「宿題はイヤ。いつまでも遊んでいたい」と思っても、夏休みが終わりに近づくにつれて、終わっていない宿題の恐怖がだんだん強くなります。
そんなときにやるべきことは宿題のことを忘れることではなく、さっさと宿題を終わらせてしまうことです。
そうすれば残った夏休みは何の不安もなく、明るく楽しめるのです。

それと同じように生を明るくするために死を忘れていては、本当に明るく生きることはできません。
100%やってくる死をありのままに見つめることが、生を明るくする第一歩なのです。

大事な人が亡くなったときに、死から目を背けるのではなく、死を見つめてその問題を解決できれば、本当の意味で「あなたは私の光」になることでしょう。

「lemon」を反対に見てみると

「lemon」の歌詞はこのように大事な人を亡くした人が、大事な人に向かって歌っているという解釈がある一方で別の解釈もできます。
あなたは「lemon」の映像を観たときに「なんか長細い映像だな」と思わなかったでしょうか。
これについて映像が長細いのは遺影から見た光景なのではないかという意見を聞いたことがあります。
それが本当かはわかりませんが、この曲は生きている人が亡くなった人に歌っているのではなく、亡くなった人から生きている人に向けて歌っているのではないかと考えると別の解釈ができます。

次回の記事で、こちらの解釈についても仏教の視点から考察します。

「lemon」に流れる無常観|より深い解釈のための仏教の視点(後)

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こんぎつね

チューリップ企画デジタルコンテンツ事業部にてサポートとインターネット業務にも携わっているこんぎつねです。(こんぎつねの記事一覧へ)チューリップ企画に来る前は愛知県で主に60代以上向けのイベントを運営していました。人について学ぶのが好きで、大学では生物学を専攻しました。よく読む本のジャンルは心理学、脳科学など人の心や体の行動に関するものが多いです。ブログもそれらの本を参考に、この悩みは 仏教ではこう解決するという内容を専門語を使わずになるべくわかりやすい言葉で発信することに心がけています。もっともっと多くの方の悩み疑問にお答えしたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
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