宋の創始者・趙匡胤に学ぶリーダーの資質|名君になる5つの秘訣(前)
こんにちは、暮らしを良くする研究家のこんぎつねです。
あなたはきっと何らかの組織に所属していると思います。
会社、自治会、町内会、青年団、マンションの管理組合など世の中には様々な組織があります。
中にはその組織でリーダーの立場にあったり、運営に携わっている方もあるでしょう。
組織が大きくなればなるほどリーダーは力を持つため、その使い方を間違えたり判断ミスをすることで組織を壊してしまうことになりかねません。
リーダーが1人という体制を取っていると、リーダーだけが強い力を持ち、判断ミスに気づかずに運営上の大きな失敗してしまうことが多いようです。
もしあなたが大小に関わらず、ある程度の人数を率いている立場だとして、どのようにしてそのような失敗を防げばいいのでしょうか。
過去の中国にもリーダーとして何をすべきかで悩んだ人がたくさんいました。
その中の一人が、宋という300年以上続く王朝で初代皇帝だった趙匡胤(ちょうきょういん)です。
名君と言われる趙匡胤には皇帝らしからぬところがありました。
「酒を飲んで酔っ払うのは皇帝としてカッコ悪い」と言いながら誘惑に負けて酒を飲んで泥酔して後悔したり、お忍びで街に出かけるのが好きで、家臣からそれを注意されたときには「ワシは皇帝なんだから好き勝手やっていいじゃないか」と文句を言ったり、「なかなか寝つけなくて心細くなった」と夜中に急に家臣の家を訪問したエピソードが残っています。
しかしこういうところが彼の魅力の1つでもあります。
彼の行動を学ぶことは、あなたのリーダーとしての資質づくりの役に立つかもしれません。
宋の誕生
趙匡胤(ちょうきょういん)の話の前に、まずどのようにして宋ができたのかを簡単にお話します。
唐が滅んでから中国は五代十国時代という戦乱の世を迎え、約50年間に15の国が誕生と消滅を繰り返しますが、その中の1つに後周という国がありました。
後周の皇帝が柴栄(さいえい)です。
柴栄は皇帝直属の軍隊である禁軍(きんぐん)を編成し、四川の後蜀や、塩の産地であった南唐を攻めて領地を奪いますが、北の契丹(きったん)を攻める途中で病没し、跡を7歳の柴宗訓(さいそうくん)が継ぎました。
しかし家臣たちは
「この戦いの世の中で、こんな幼帝で国は大丈夫だろうか」
と不安を覚えます。
そこで白羽の矢が立ったのが柴栄の時代から将軍として軍を率いてきた趙匡胤(ちょうきょういん)です。
柴栄の死の混乱に乗じて攻め込んできた北漢を迎え撃つため、趙匡胤(ちょうきょういん)が軍を率いて出陣した夜のこと。
酒好きの趙匡胤は会議が終わるといつもの通り酒を飲んで、酔い潰れて寝ていました。
その趙匡胤に忍び寄る者がありました。
参謀の趙普(ちょうふ)と弟の趙匡義(ちょうきょうぎ)です。
2人は将兵を引き連れて趙匡胤を叩き起こしました。
趙匡胤「ふわぁ…ん?うわっ、なんだおまえたち!謀反か!?」
趙普「趙匡胤様。諸将と話し合った結果、あなたに皇帝になってもらうことになりました。つきましてはこの黃衣(黄色い衣で皇帝の象徴)を着てください」
趙匡胤「はあっ!?本気か?」
趙匡義「もちろんです。こんなことを冗談で言えませんよ」
趙匡胤「もし断ったら?」
趙匡義「ここで兄上を斬って、私たちも自害します」
趙匡胤「…しょうがない。わかったよ」
趙普「よし皆の者!これより趙匡胤様は皇帝だ!」
将兵たち「万歳!万歳!万歳!!」
趙匡胤「…」
こうして酔い潰れている間に皇帝になった趙匡胤は
- 柴宗訓や皇太后に手を出さないこと
- 重臣はこれまで同僚だったから、手を出さないこと
- 府庫は国家の宝であるから、略奪しないこと
を部下たちに約束させて城に戻りました。
柴宗訓や重臣らには趙匡胤たちに対抗する手段がなく、禅譲して趙匡胤は正式に皇帝となり、国号を「宋」と名付けました。960年2月4日の出来事でした。
リーダーの資質1:欲を抑える努力をした
リーダーである以上は、部下に指示を与えることができます。
嫌がる部下に無理やり指示を聞かせることもできます。
しかしそれを繰り返していると自分でも止められなくなり、部下の感情を無視しがちになります。
趙匡胤(ちょうきょういん)は皇帝ですから、やろうと思えば命令に従わない者を「死刑にするぞ」と脅して従わせることもできました。
しかし趙匡胤はそのようなやり方ではなく、話し合いで問題を解決する人でした。
杯酒釈兵権
皇帝となった趙匡胤(ちょうきょういん)は唐が滅びた原因は軍が力を持ちすぎたからだと考え、各地の軍閥の力を弱めるために軍閥のトップを中央に呼んで官職を与え、新たなトップには文官を就かせました。
また同時に今まで同僚だった他の将軍たちが
「趙匡胤のヤツが皇帝になれるんなら、俺もなれるんじゃないか」
と考えて謀反を起こす可能性があったので、彼らの兵権を取り上げて地方の太守に任命して謀反を阻止しつつ、軍閥の力を抑えるために一計を案じました。
あるとき将軍たちを呼んで酒宴を開き、宴もたけなわになった頃にこう切り出しました。
趙匡胤「ワシがここまでこれたのはみんなのおかげだ。感謝に絶えない。だが皇帝になっても大変なことばかりで、不安で夜も寝られないんだ」
将軍たち「なにがそんなに不安なんですか?」
趙匡胤「簡単なことだ。おまえたちに寝首を掻(か)かれるかもしれないからだ」
将軍たち「えっ、陛下はなぜそのようことを仰るんですか?もう天命は定まっているのに、誰がそんなことをするでしょうか」
趙匡胤「おまえたちにその気はなくても、おまえたちの部下にその気があったらどうする?ワシみたいに黃衣を無理やり着せられてしまえば、その気が無くても謀反を起こさざるを得ないだろう?」
将軍たち「ううっ、私たちはバカなため、そこまで考えていませんでした。ここまで陛下を悲しませているなんて知りませんでした。私たちはどう生きていくのがいいのでしょうか」
趙匡胤「そうだなあ。人生は『白駒過隙(はっくかげき:あっという間のこと)』だ。金持ちになって、金銀を蓄えて、娯楽を楽しみ、子孫に貧しい思いをさせないようにする。これが一番だろうなあ。そうだ、おまえたち兵権を返さないか?そうすれば住みやすい土地を与えるぞ。そこで子孫のために生業をするもよし、美人を侍らせるもよし、飲酒にふけるもよしで天寿を全うできるぞ。ワシからあらぬ疑いをかけられる心配もないし、ワシもおまえたちもどっちも幸せじゃないか?」
将軍たち「ありがとうございます。陛下が私たちにかけてくださるご恩はまさに『生死肉骨(せいしにくこつ:窮地にあるときに助けてくれた人の大恩のこと)』です」
翌日将軍たちは軍権を返しに来ました。
趙匡胤は彼らを労い、多額の年金を与えて地方の軍閥の権限を持たない名目上の長官に任命したため、彼らは子々孫々まで裕福に暮らしました。
この、酒を飲みながら説得し、兵権を返させた出来事を「杯酒釈兵権(はいしゅしゃくへいけん)」と言います。
誰の血を流すことなく、軍閥の力を弱めて謀反の芽を摘んだのです。
質素倹約
私たちはお金を持つとついつい贅沢品や嗜好品を買ってしまいがちです。
しかし趙匡胤(ちょうきょういん)は皇帝になっても贅沢を慎みました。
服は何度も洗濯をして色が落ちたものを身に付けていました。
それを見かねて弟の趙匡義(ちょうきょうぎ)が
「兄上、もう少し皇帝らしい服を着てはいかがでしょうか」
と言うと
「おまえは軍隊にいた頃を忘れたのか!」
と叱りつけました。
また娘の永慶公主が豪華な刺繍をして、カワセミの羽をちりばめた上着を着ているのを見るとすぐにそれを取り上げました。
永慶公主が
「これぐらいの服いいじゃないですか。羽根だってそんなにたくさん付けているわけじゃありませんし」
と文句を言うと
「公主であるおまえがこんな派手な服を着たら、他の者もマネをするからダメだ。おまえは公主として育ったことの有難みをもっと感じるようにしなさい」
と許しませんでした。
趙匡胤の贅沢らしい贅沢といえば酒を好んだことぐらいですが、それ以外には自分のことに関しては質素を貫きました。
贅沢を始めれば際限なく欲しがって国庫を傾け、政治を疎かにすることを知っていたのでしょう。
長くなりましたので、残りは後半に続きます。
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こんぎつね
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