部下の仲が悪いと悩むあなたへ|仲が悪い部下への三国志・曹操の奇策(前)
こんにちは、暮らしを良くする研究家のこんぎつねです。
仕事をする上で人間関係は避けて通れない問題です。
あなたの部下同士は、あるいは同僚は仲がいいでしょうか。
たとえ仲が悪くても仕事に影響が出なければいいのですが、影響が出ているのなら厄介です。
「あいつとあいつの仲が悪くて困っている」
「単に仲が悪いだけならいいけど、それで仕事に支障が出ている」
「部下がグループを作ってケンカをしている。間に挟まれる自分はホント疲れる」
という話も聞こえます。
嫌い合っている片方に問題があって、めんどくさがりで嫌いな仕事を人任せにする、何か言うときに一言も二言も多い、情がなく冷たい反応をする等のような悪い部分がある場合は、そこを注意して直してもらえばいいのですが、そんな悪いところもないのに仲が悪いのは困りものです。
一般的な対策としては
- 仕事量や役割分担を変える
- 挨拶をさせる
- 仕事の場所を別にする
などがあります。
あるいはお互いの言い分を聞いて、お互いが相手のどこが気に入らないかを知り、直すべきところは直させて、それほど目くじらを立てて指摘するほどでもなければ許容するよう促すことも必要でしょう。
そのようなやり方もある一方で、少し変わった方法があります。
中国の三国時代、最大勢力を誇った曹操(そうそう)が仲の悪い部下に対して行った策です。
簡潔に言えば、曹操は仲の悪い部下同士に重要な仕事を任せました。
さて、重要な仕事を任せられた部下同士はきちんと仕事をこなせたのでしょうか。
仲の悪い部下を一緒に戦わせた曹操
中国の三国時代は曹操(そうそう)、孫権(そんけん)、劉備(りゅうび)の3つの勢力が天下統一を狙って争っていた時代です。
その中で曹操の勢力は中国の北部、孫権の勢力は中国南東部をそれぞれ支配していましたが、この2勢力の間にあったのが合肥(がっぴ:現在の安徽省合肥市)という場所です。
ここを取られれば孫権が曹操の支配域に侵入してくるため、曹操陣営にとって重要な拠点でした。
あるとき孫権が曹操を倒そうとして前線である合肥城を攻撃したとき、合肥城を守っていたのが張遼(ちょうりょう)・楽進(がくしん)・李典(りてん)という3人の将軍です。
この3人は曹操軍の中でも十本の指に入る名将たちだったのですが、前々から仲が悪く、かつて同じ地域を守備していたときにはそれぞれが自分のやりたいように行動していがみ合い、協力しないことがありました。
なぜ仲が悪かったのかはわかりませんが、楽進と李典は初期のころから曹操(そうそう)に従っていた将軍ですが、張遼は元は呂布(りょふ)という武将の配下で、曹操が呂布を滅ぼしたときに降ってきた将軍です。
その呂布との戦いのときに、李典(りてん)の一族の長であった李典の伯父が戦死しているため、一族の仇が今自分と同じく曹操の元で活躍していることが気に食わなかったのかもしれません。
また楽進(がくしん)は敵陣に一番に斬り込んで一番手柄を立てるのが好きな猛将で、残りの2人をライバル視していたと考えられます。
会社でいえば創業時から社長に従っている古参のライバル幹部2人と、中途採用で入ってきて昇進した新幹部。
しかも片方の古参幹部と新幹部の間には個人的な確執もあるといったところでしょうか。
現代でも問題が起こりそうなパターンですね。
国境の要衝(ようしょう)を守るという重要な仕事を任された3人ですが、きちんと役目を果たせたのでしょうか。
合肥の戦いでの3人の協力
そんな仲の悪い3人がいる合肥(がっぴ)城に孫権(そんけん)が10万人の大軍で攻めてきました。
対する3人側には7千人しかいません。
約15倍の兵力を持つ敵を相手にどうしたらいいのか。
張遼(ちょうりょう)は以前「敵が来たら開けよ」と預かっていた曹操の命令書を開いてみました。
すると命令書には
「もし孫権が攻めてきたら張遼と李典は出撃せよ。楽進は城を守れ」
と書かれていました。
個人的な怨恨のある張遼と李典とで撃って出て、一番乗りが好きな楽進には城を守れという命令に3人は一瞬戸惑います。
張遼(ちょうりょう)は普段から自分たちの仲が悪いので、2人が指示に従うか不安だったのですが、張遼が
「曹操様は遠いところにいらっしゃり、救援を依頼しても到着する頃には我々は破れているだろう。だからそれを見越して命令書をあらかじめ用意してくださり、敵が城の周りに陣を敷く前に迎え撃って威勢をくじき、我々の軍勢の心を落ち着け、その後で守れとおっしゃっているのだ。勝敗の機はこの一戦にある。貴公らは何を戸惑っていられるのか!」
と言うと、李典(りてん)もまた
「ああそうだ。今は国の一大事!考えるべきは計略だけだ!個人的な恨みで己のやるべきことを忘れはしない!」
と張遼に賛同して、2人は決死隊800人を募り、明け方に10万人の敵に向かって突撃しました。
「こちらは10万人もいるんだ。たかが7千人の城なんて簡単に落とせるさ」
とタカをくくっていた孫権(そんけん)軍は命がけの猛攻と張遼の凄まじい気迫に恐れて戦意を失い、明け方から日中まで敵の真っ只中で戦い続けた張遼は「敵は戦意を喪失した」と判断して引き上げ、守備を固めました。
その後10日間、孫権は攻撃を続けましたが、奇襲が成功して勢いづいた合肥(がっぴ)城は陥落できず、疫病が発生したため退却しました。
ここで
「やった。敵は退却したぞ!俺たちは勝ったんだ!」
と満足せず、
「よし、この機に孫権の首を取るのだ!」
と今度は張遼(ちょうりょう)と楽進(がくしん)で急襲をかけました。
驚いた孫権は急いで逃走し、部下を多く失いながら命からがら逃げ帰りました。
孫権の顔を知らなかった張遼が、戦いの後で孫権の顔の特徴を聞くと
「ああ、あの男か。あの男が孫権だと知っていれば追って捕まえたのだがな」
と楽進に言って悔しがったそうです。
張遼がすごかったのは間違いないですが、もしも最初に李典と楽進で攻撃していたら、李典が意地になって協力しなかったら、そもそもこの3人に合肥城を任せなかったら、おそらく合肥は孫権に奪われ、歴史が変わっていたでしょう。
仲が悪い部下同士に重要な仕事を任せるという誰もが驚く曹操(そうそう)の奇策が勝利を呼んだのです。
なぜこの戦いがうまくいったのでしょうか。
たまたまなのか、他の場面でも使えるのか、後編で考えてみたいと思います。
こんぎつね
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