妻の束縛が辛すぎて家出した皇帝がいる?|束縛の強さは愛の深さか(前)
こんにちは、暮らしを良くする研究家のこんぎつねです。
あなたは「妻の束縛が辛い」と嘆いてはいないでしょうか。
あるいは旦那さんから「うちの妻は束縛が強くて…」と嘆かれていないでしょうか。
「毎日携帯をチェックされる。知らない女性との電話やメールがあれば問いただされる」
「残業して遅くなっているのに浮気を疑われる」
「1人で外出すると電話がかかってきて、どこにいて何をしているのか聞かれる」
などキツイ束縛に不満の声を上げる方も多いようで、中には離婚にまでなってしまうことがあるようです。
奥さんが旦那さんに望むことは
「私(たち)の子供が一人前になるまで子供と私の面倒を見てほしい」
という気持ちです。(参考:話を聞かない男、地図が読めない女)
子供がいる人でもいない人でも、子育てが終わっていてもいなくても、旦那さんより奥さんの方が収入が上でも、この心は共通しています。
逆にそういう願望が女性になくて、「子供なんて育たなければ育たないで別にいい」という女性ばかりなら、とっくの昔にヒトは絶滅しているでしょう。
ですから「妻の束縛が辛い」と嘆くあなたがすべきことは、怒って奥さんを責めたり、「うちの妻の束縛が辛くて…」と同僚にこぼすことではなく、子供と奥さんの面倒をずっと見ることをわかりやすい言葉や態度で示すことです。
具体的には、
- 花を渡す(植木鉢はアウト)
- 「いつもありがとう」と言う
- 手を握る
- 抱きしめる
- 時間をかけて何かを用意する
- 一緒に作業をする
などです。
ずっと面倒を見てもらえると安心すれば奥さんの束縛も緩むのではないでしょうか。
このように妻の束縛が辛いと嘆く旦那さんは、近年の男女平等の世の中になって初めて現れたわけではないようです。
今から1400年前の中国・隋の皇帝だった楊堅(ようけん)も「妻の束縛が辛い」と嘆いています。
皇帝である彼に一体何があったのでしょうか。
隋の皇帝・楊堅の治世
中国は316年に晋が滅んで約300年の間、五胡十六国時代、南北朝時代という戦乱の世が続きました。
その中国を統一して隋を建てたのが楊堅(ようけん)です。
中国を統一した楊堅は国を安定させるために次々と改革を進めました。
- 新たな法律を制定する
- 官吏制度を抜本的に見直す
- 地方を再編成する
- 中国を縦断する大運河を建設する
- 仏教を興隆する
- 科挙を始める
などです。
特に科挙は598年に制定されて以後、1904年までずっと行われた官僚登用試験で、後の中国に多大な影響を及ぼしました。
また中国史上にも稀な、大々的な仏教振興策を取りました。
601年からのわずか数年間で、23万人が出家し、3792寺が建てられています。
このように改革を次々と実行していった楊堅(ようけん)ですが、家庭生活は円満だったかというとなかなか厳しかったようです。
束縛がきつかった皇后・伽羅
楊堅の妻の名前を独孤伽羅(どっこから)と言います。
伽羅は14歳の時に楊堅に嫁いで夫を支えました。
結婚の時に「私以外の女と子供を作らないでくださいまし」と楊堅に約束させ、楊堅も軽い気持ちで了承したのですが、これが将来大ごとになります。
伽羅が28歳のとき、隋が建てられて伽羅は皇后になりました。
皇后になってもおごることもなく、謙虚で読書が好きな、そして夫想いの女性でした。
伽羅は家臣に楊堅の言行を探らせ、政治の判断に間違いがあればすぐに諫(いさ)めて正させました。
政治について楊堅と意見を交わすときも、相談をすることなく2人の意見が一致することがたびたびあり、楊堅は伽羅(から)を愛していましたが、同時にその聡明さを畏(おそ)れてもいました。
そんな伽羅ですが、気が強くて嫉妬深いところがあり、楊堅に対して側室を置くことを禁止しました。
皇帝といえば、後宮に何百人、何千人と美女を集めるのが当たり前で、晋の初代皇帝の司馬炎(しばえん)は後宮に1万人の女性を集めたほどでしたが、楊堅(ようけん)はそんな事情があり、伽羅だけを妻としたのです。
伽羅は夫が浮気しないように、毎朝後宮から朝廷に仕事に行くときは朝廷の門まで見送り、仕事が終わって朝廷から出てくると門の前で待っていて一緒に帰りました。
現代で言えば、毎朝会社の玄関まで付いてきて夫を見送り、退社しようとすると玄関で待っている奥さんのようなものでしょう。
これでは「今日残業で帰りが遅くなるから先に食べてて」と連絡して同僚と飲みに行くこともできませんね。
皇帝であるにも関わらず、家と会社の往復だけの毎日を楊堅は過ごしていたのです。
これなら現代のビジネスマンのほうがよっぽど幸せではないでしょうか。
妻の束縛が辛くて家出する
そんなキチキチに束縛された辛い生活を送っていた楊堅(ようけん)ですが、あるとき後宮で仕えていた尉遅熾繁(うっちしょくはん)という美女が目に止まりました。
たちまち熾繁(しょくはん)に心を奪われた楊堅は伽羅(から)に止められているのを無視して密かに熾繁(しょくはん)と通じました。
しかしそれが伽羅にバレてしまいます。
伽羅は怒って、楊堅が朝廷に行っている間になんと熾繁(しょくはん)を処刑してしまいました。
そうと知らずに朝廷から楊堅が帰ってきました。
きっと家と会社の往復の毎日の中に楽しみを見つけ、ウキウキしながら帰ってきたことでしょう。
楊堅「やっと仕事が終わった。今日も熾繁(しょくはん)と楽しく過ごそう…あれ、熾繁がいないぞ?」
家臣「実は…」
楊堅「おい、熾繁はどうした?」
家臣「あの、大変申し上げにくいことなのですが…皇后様が怒って熾繁殿を処刑してしまわれました…」
楊堅「…………………………うわああああああ!なんで!なんでそうなるんだあああああ!!」
家臣「ああっ、陛下どちらへ!?」
楊堅は怒りのあまり単騎で城を飛び出してしまいました。
後を追った家臣たちが楊堅を見つけたのは二十里(約9㎞)ほど離れた山中の谷間です。
追いついた家臣たちが近づくと楊堅はため息をついて
「なんでワシ、皇帝なのにこんなに自由がないんだろうな…」
と哀愁を漂わせてつぶやきました。
ところが追ってきた家臣もなかなかに厳しい反応で
「陛下は一婦人(伽羅のこと)のために天下を捨てるのですか」
と諫(いさ)め、夜になって後宮に帰りました。
後宮に帰ると伽羅は涙を流して謝ったので、楊堅と伽羅は仲直りし、夫婦の仲は保たれました。
しかしこのような夫婦関係だけを重視して、夫を束縛する伽羅の考え方はやがて隋を破滅させることになります。
後半に続きます。
妻の束縛が辛すぎて家出した皇帝がいる?|束縛の強さは愛の深さか(後)
こんぎつね
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