高齢者の孤独が犯罪を生む|お釈迦さまの示す孤独を生きる力
こんにちは。こころの悩みサポーターのこうへいです。
日本は2010年に超高齢社会に突入し、ますます高齢者と言われる人が増えています。
そしてそれにも増して増えているのが、高齢者による犯罪だと言われています。
日本全体の犯罪認知件数はここ数年減少傾向にありますが、高齢者による犯罪件数だけは増加傾向にあるそうです。
高齢者の犯罪の中でも特に多いのが、窃盗だと言われます。
高齢者の貧困が大きな原因の一つであることは明らかでしょう。
ところが、中には経済的にはある程度恵まれている人による犯罪も見られるそうです。
特にお金に困っているわけではないのに、お店の物を万引きするなどの犯罪を犯してしまうのです。
その理由の一つに喪失感や孤独感があると言われています。
孤独感が犯罪を引き起こす
弊社発行の月刊誌『とどろき』の中で以前にこの話題を取り上げたことがあります。
その中で、『老人たちの裏社会』(新郷由起・著)という本を引用してこう書いています。
それまで真面目に生きてきたであろう人が、なぜ人生の終わりに犯罪者となるのでしょう。
高齢者犯罪の実態を『老人たちの裏社会』という本の中で、多くの万引き事件を担当してきた弁護士が述べています。
「彼らに共通している思いは、自身に対する絶望感と、社会ルールを守ることへの無意味さです。
『すべてを失うのになぜ?』と言えるのは恵まれた人の見解で、生き続けるほど大切なものが増える人もいる一方で、守るべきものを失うばかりの人も少なくないのです。
家族も離れていき、病気や死別などで友人もいなくなり、財産も乏しくなる……老いる意味が絶望の連続となっている人にとってはすでに、自分の命さえも大事ではなくなる。
こうした人たちにおいては、加齢が犯罪を抑止する壁にはならないのです」(老人たちの裏社会)若い頃の頑張りが報われると信じてきたが、家族や伴侶、友との死別、経済的困窮、病気などで一つ、また一つと「喪失」していくばかりになった。
人に挫折は付きものですが、跳ね返す気力や体力があれば、幾らでもやり直しはきくでしょう。
だが、衰えた心身に度重なる「喪失」はあまりにキツく、想定外の大きな変化に対応できぬまま、彼らは失う痛みを誰とも分かち合えなかったのでしょう。傷ついた自分を誰も気にかけず、大切に思ってもくれない。
そんな現実に絶望した時、自分さえ大事に思えなくなっていくのです。
『老人たちの裏社会』では86歳の万引き犯の女性の、こんな一言を紹介しています。
「『万引きをしそうになったら、大事な人を思い出して』と言われたけど、大事な人なんていないんだからしょうがない」
この「喪失」による深刻な孤独感は、家族のいる高齢者でも感じると言われます。
それは一緒に暮らしていても、自分の心の痛みを分かち合える相手はなかなかいないからです。
子供がいても、自分たちのことで忙しく、皆それぞれが勝手に過ごしていることが多いようです。
表面的には労ってもらえているようでも、心の中では馬鹿にされ、軽視し、邪険にされている事実に気付いていると言う人もあります。
先ほどの『とどろき』の記事を読まれた60代の男性から、「同居の母の孤独な気持ちが理解できた気がする」とこんな感想が届きました。
高齢者の犯罪の背景に何があるのかを知ることができました。
若い時は独りでいても、仕事や遊びや趣味などやることがたくさんあり、またやる能力もあり、仲間も多くあるので、孤独を感じる余地はありません。
でも、高齢になると仕事ができなくなり、社会との関わりも減ってくるので、孤独を感じることが多くなります。
自分を認めてくれる人がいなくなります。
また、生活上の能力も落ちてくるので、愚痴や不満が多くなり、暗い心になりがちです。私は88歳の母と同居しています。
母はいつも「孤独だ」と言っています。楽に往生できたらいいと言っています。
家庭ではよく愚痴をこぼして、私たちを困らせます。
でも、これが家族の一員であることを証明しているように思います。
孤独なのは一部の人だけではない
孤独で苦しんでいるのは、高齢者や一部の人だけのことではないと言われます。
それは、どれだけ周りに人がいても、人はそれぞれ別の世界に生きていると言われるからです。
以前の『とどろき』の中にはこう書かれてあります。
私たちには、どのように配慮してもなくならない寂しさ、「孤独」というものがあります。
その孤独とは、隣に連れ合いがいても感じるもの。永遠の愛を誓った夫婦でも、ケンカもしないほど気が合い共感できるパートナーでも、心の深い部分まで分かり合うことはできない。
魂の孤独のことです。
ここから先はどうにも相いれぬ、というものが必ずある。
“どんな人でも心の奥底に秘密の蔵を持っている”と仏教では説かれています。そんな人間の実相をお釈迦さまは、「独生独死 独去独来」(大無量寿経)と仰っています。
私たちは、この世に独りで生まれ、独りで死んでいく。独り来て、独り去ってゆく。
最初から最後まで、独りぼっちの旅をしているのだと説かれています。
それは一緒に生まれてくる双子や三つ子も例外ではありません。
どれだけ顔が似ていても、心は各人、別の世界に生きているのです。だから“肉体の連れはあっても、魂の連れがない”といわれるのです。
孤独で苦しむための人生なのか
このように聞くと、私たちは一人ぼっちで孤独な心に苦しみながら生きていくしかないのかと思う人もあるかもしれません。
しかし、「孤独で苦しむだけの人生なんだからあきらめろ」というのがお釈迦さまの仰りたかったことではありません。
お釈迦さまの説かれた仏教には、孤独で苦しむ私の心をすべて分かってもらえたという幸せになれるのだと説かれています。
仏教に「広大会」(こうだいえ)という言葉がありますが、広くて大勢の人が集まっている、にぎやかな世界のことです。
常にお釈迦さまや親鸞聖人などの方々が温かく語りかけられる、魂の孤独とは無縁の世界です。
寂しい人生も変わらぬ幸せになるためのものだと分かれば、自分のことも心から大事に思えるのです。
まとめ
近年、増加傾向にある高齢者の犯罪を通して、高齢者の孤独感について話をしました。
お釈迦さまは、すべての人は独りぼっちの旅をしているのだと説かれます。
ひとり旅の人生ですが、私たちは孤独で苦しむために生まれてきたのではありません。
変わらぬ幸せになるために生まれ、生きているのだとお釈迦さまは教えられています。
伴侶との死別によって深い孤独を感ずる人が多いようです。
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こうへい
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