「死後の世界は無い」愛する人と死別してもそう思えますか?
こころ寄り添う研究家の九条えみです。
今回のタイトルにドキッとする人もあるのではないでしょうか。
「死後」がどうなっているのか、さっぱり分からないからです。
死後の世界の有無を信じる割合
死後の世界を信じるか、信じないかのアンケート調査があります。
死後の世界を信じる 4割
死後の世界を信じない 3割
決めかねる・分からない 3割
死後の世界を信じる派、信じない派、また分からないという人が同程度の割合です。
どれが真実かはこのアンケートからは分かりませんが、言えることは死後の世界は曖昧な問題である、ということです。
学生時代に「死後の世界は有ると思うか、無いと思うか」と宗教の授業で聞かれたことがあります。
クラスを見回すと、やはり半々くらいでした。
女性は「死後の世界は有ると思う」に手を挙げる人が多く、
男性は「死後の世界は無いと思う」に手を挙げる人が多かったです。
男性は論理的に物事を考える傾向があるからでしょうか。
「死後の世界は無い」そう思っていても
ある80代の男性も、人間は物質的存在という観点から、死後の世界は無いと考えておられました。
生死の問題、私もいつも考えている課題です。
一時は、人間死ねばすべて無くなる。
亡くなった後は熟睡しているときと同じような状況の無の世界ではないかと思っていました。
人間の活動のすべては心を含めて脳でコントロールされており、死と共に脳も活動出来ず無の世界に入るのではないか。しかし人間の心はそのようなものだろうか。
愛する人と死別した時、もうこの人の脳は活動を停止しており一つの物体となったと考えられるであろうか。
そんなことはない。
ただの物体であれば粗末にしても、愛していた人をそんな扱いには絶対にできない。
人間の心はそんな単純なものではない。
自分の死後はどうなるのであろう。死を認識したとき自分は笑ってそれを受け入れられるであろうか。
そんなことを考えています。
愛する人の存在が無になったとは思えない
自分も愛する人も元気な間は、死は遠くにあり、他人事と過ごせます。
考えたくない事柄だからか「死は休息だ」「永眠だ」「恐ろしくない」と気楽に考える人もあります。
しかし、肉親や身近な人が亡くなった時は、「安らかにお眠りください」「迷わずに成仏してください」などと涙ながらに語られる光景を目にします。
これらは死後の世界を前提としなければ、出てこない言葉です。
自分の愛する人が、魂も何もかも一切消滅してしまったとは、とても考えられないからでしょう。
魂というものが存在し、どこかに何かしらの形で存在し続けていると思えばこそ、年忌法要や墓参りなどをせずにおれない心情になります。
死んだあの人はどこへ行ったの?
愛する人と死別したときに浮かんでくる疑問は次のようなものが多いでしょう。
「あの人は、今どこにいるんだろう?」
私個人の話になりますが、身近な肉親では父方の祖父母を亡くしています。
祖父は私が物心つく前の幼い時に亡くなってしまったので、悲しいことにあまり記憶がありません。
祖母は私が大学生の時に亡くなりました。
葬儀は祖母の家で執り行われました。
見慣れた部屋に、マネキンのように横たわっている祖母の姿を見て、
「今、おばあちゃんはどこにいるんだろう?」という得体のしれない不安を感じました。
この部屋で小さい頃に一緒に写真を撮ったのも現実。
隣の部屋でおばあちゃんが寝ていたのも現実。
なのに、どうして今目の前にいる祖母は冷たく抜け殻のように?
「死」というものが現実に突き付けられ、これが人間の最期の姿なのだと実感をもって迫ってきました。
身近な肉親との死別を通して、自分も必ず死なねばならないのだと厳粛な気持ちにさせられました。
それと共に「死後、自分はどうなるのだろうか?」と、死後の世界の存在を否応なしに考えさせられることになったのです。
死んだあとは有るのか?無いのか?
有るならば、どんな世界なのか?
必ずいかねばならぬ行き先なのに、まったくの無知である。
しかも、普段はそこに何の疑問も持たずに過ごしている。
大きな矛盾を抱えた人間の姿に、一種の愚かさを感じたのでした。
死後の世界をハッキリさせることが一番大事
そんな時、仏教の言葉に親しむ機会があったのです。
八万の法蔵を知るというとも、後世(ごせ)を知らざる人を愚者とす。
たとい、一文不知の尼入道なりというとも、後世を知るを智者とす、といえり。
(意訳)百科事典を丸暗記しているような物知りでも、100%確実な未来である後世(死後、後生)を知らなければ愚者だと言われる。
たとえ字のタテヨコがわからない文盲の人でも、最も大事な死後の世界 (死んだらどうなるか)がハッキリしている人が、 本当の智者と言えよう。
(真宗中興の祖―蓮如上人)
ここで「死後の世界がハッキリする」とはどういうことなのか?
私と同じような疑問を持つ方もあると思います。
仏教でいう死後の世界がハッキリするとは「いつ死んでも極楽浄土へ往くこと間違いなし」と行く先の明るくなったことを言うのだそうです。
誰しもが安心して生きたいと願っています。
この先どうなるか、未来を読む知恵があれば、安心して生きることができます。
景気や株の変動、老後はどう生きていくか?などの未来も知りたい所ですし、
そういう事ならば、主体的に情報を集め、また対策を講じている人も沢山います。
ただ、老後はある人とない人がいます。
え?と思うかもしれませんが、不慮の事故などで若くして亡くなられる方もあります。
仏教ではすべての人の100%確実な未来(死後の世界)を生きている今ハッキリさせられる。
死ねば必ず極楽浄土へ往くことができることが決定しますので、大安心をもって明るく人生を謳歌できる、という教えなのだそうです。
先行き不透明な現代に仏教ブームが続いているのも「未来を知って、安心して生きたい」願いの表れかもしれません。
今の不安はどこから来るのでしょうか?気になる方はお読みください。
→「死んだらどこへ行くのかな?死ぬって怖いな」と思ったことのある方へ
九条えみ
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