余命宣告を受けた人も「生きる意味がある」と教えられたお釈迦さま
こんにちは、みさきです。
2年前からご主人の介護をされている70代の女性とお話する機会がありました。
ご主人が胃ガンと宣告されて2年が経ち、今は末期の状態だそうで、女性は「意味のない思考が頭の中をぐるぐる回るばかりで不安」と言われていました。
私もお話を聞きながら亡くなった祖母を想い返し、この女性の気持ちが少しわかりました。
今回は、余命宣告をされた大切な人にどのように接したらいいのか考えてみたいと思います。
家族の余命宣告には準備ができていない
余命宣告は、人生の終わりを設定されたようなものです。
「いつかは死ぬ」と誰もが知っているものの、それは漠然とした知識に過ぎず、身近な家族や自分が余命宣告を受けた時、初めて「死」に真剣に向き合うようです。
2019年に映画化された『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った』では、作者がガンを宣告された母親との最期の日々の実体験が描かれています。
母親との別れの日は誰にでも必ず訪れる。
自分の母親だけは絶対に死なないと、根拠もなく思い込んでいたけれど…(原作より)
国内では毎日3000人以上の人が亡くなります。
その中に自分の家族が含まれる日が来るのですが、まだまだ先のこととしか思えません。
そんな日常の中で突然、家族の余命宣告を聞くことになるのです。
「まさか!」
想定外の事態に言葉を失う瞬間です。
自分の家族はずっと生きていられると錯覚しているから驚くのです。
家族も自分も死ぬことを実感させられるのが、余命宣告を受けた時なのです。
余命宣告を受けた時からの生き方
死にゆく家族を見守る側に立った時、解決の見えない様々な思考が頭から離れません。
・日に日に弱っていく母に、何もしてあげられない自分が辛い
・発作を起こした兄を見て、怖くて怖くて不安でたまらない
・身辺整理をする母に腹が立ってしまった
・治る見込みはなく、人工呼吸器で生きる父。早く死なせてあげたほうが楽なのだろうか
私は舌ガンだった祖母を家族で3年ほど介護しましたが、その時に考えさせられたのは「人生の最後に病気で苦しみながら生きる意味は何なのだろうか」ということでした。
祖母が余命1年と宣告された時、祖母が喜ぶこと、家族で思い出を作ることをしようと考えました。
一緒にテレビを見て笑ったり、祖母の昔話を聞いたり、夏には祖母が好きだったかき氷を食べたりしました。
ところがしだいに、自分で食事が取れず胃ろうで栄養補給をするようになり、呂律が回らなくなり、ガンの痛みで時々涙を見せる祖母の姿を見ていると、人生の最後をどう過ごせば悔いがないのか分からなくなりました。
祖母の人生から、自分の生き方に迷いが押し寄せてきた感覚でした。
余命宣告を受けた人も「生きる意味がある」と教えられたお釈迦様
祖母の余命宣告をきっかけに「生きる意味」を知りたくて、本やインターネットで調べるようになりました。
その中で心に響いたのは、仏教の次の言葉でした。
まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には一つも相添う(あいそう)ことあるべからず。
蓮如上人『御文章』より
「いよいよ死んでいく時は、今までたよりにしていた妻子や財宝もすべて離れていってしまう。何一つ持っていくことはできない」と示すこの言葉は、余命宣告を受けた人の心に刺さるものがありました。
余命宣告を受け、病気で身体が弱くなると、今まで当たり前にできていたことができなくなり、死を待つだけになります。
これが万人の行く先なら、なぜ人は一生懸命生きていくのでしょうか。
この根深い疑問にお釈迦さまの教えが繰り返し問題提起していました。
お釈迦さまは「生死の一大事を解決して、人間に生まれてよかったと喜べる本当の幸福がある」と断言されました。
それを知り、もっと仏教を学びたいと思うようになりました。
お釈迦さまの教えを詳しく知りたい方は、こちらをご覧ください。
みさき
最新記事 by みさき (全て見る)
- 70代からの人生を充実させる-死への恐れを乗り越えるために知っておきたいこと - 2024年11月13日
- 「夫婦関係」をより豊かに!つながりを深める3つのステップ - 2024年10月16日
- 人生の後半をよりよく生きるために|「中年の危機」を克服するブッダの意外な明答 - 2024年9月18日