目標を達成しても虚しいのは、なぜ?人生の目的と目標の違い
「頑張って目標を達成したのに、なぜか心が満たされない」
そんな経験をしたことはないでしょうか?
しかもそれは、長い時間や労力、情熱を注ぐのと比例して虚しさも深まっていくのを実感しています。
目標を達成したあと
部活動でコンクール入賞を目指して、土日返上で練習に打ち込んだあの頃。
大会当日、やりきった充実感は一瞬で、そのあとにふと「あれ?目指してた場所に立てたはずなのに、何もない・・・」そんな思いがこみ上げてきました。
受験勉強で、プレッシャーと戦いながら1年やり通したあの頃。
合格発表で、自分の番号を見つけた安心感はあるけれども、「1年受験に向けて苦労した対価と見合わない満足感だな」とあっけにとられた記憶があります。
『なぜ生きる』という本の中にも、次のような話が載っていました。
「来てみれば さほどでもなし 富士の山」と詠まれるように、遠方から眺めれば秀麗な山も、登ってみると空き缶や散乱するゴミで、失望させられます。
私たちの描く「目標」も、遠くにあるときは素晴らしく見えますが、「やった!」とたどり着いた瞬間、何かが心に忍びよります。
ようやくかなった夢なのに、「得られたものはこれだけか」、ガッカリした体験はないでしょうか。
皮肉なことに、苦労を重ね、大きな目標を達成したときほど、
「私は何をやっていたのだろう」
「こんなことに苦しんでいたのか。もっと何かがあるのでは……」
拍子抜けしたような、奈落の感覚に一転しやすいのです。
「人間は、努力するかぎり迷うものだ」という、ゲーテ『ファウスト』の言葉にうなずく実例に事欠きません。
(『なぜ生きる』より)
自分の心を言い当てられ、何かこの本には私の知らない答えがあるのではないかと、繰り返し繰り返し読みました。
目標を達成しても虚しいのは、なぜ?
目標に向かって頑張っているのに、なぜ達成しても虚しいのでしょうか?
それはマラソンにたとえるなら、目標を「ゴール」と勘違いしているからです。
目標はゴールではなく、マラソンの「給水場」のようなものです。
42.195キロの長い長いマラソンの途中で給水場に着けば、一息つけます。が、そこがゴールではありません。
ゴールに向かって、また走り出すのと同じように、「給水場に到達したからマラソンを完走できた」ということにはなりません。
マラソンは大変です。
走れば走るほど、足は疲れ、息は切れ、血の味がしてくるようになる。
それでも己と戦い、足を前に出し、ゴールへ一歩一歩と近づいていく。
そしてついにゴールのテープを切ったときに「頑張って走ってきて良かった!」と今までの苦労がすべて報われるのです。
給水場があるのは、ゴールに着くまでの手段であって、目的ではありません。
だから、給水場にたどり着いたとしても、一時的な満足で、また次の給水場へと進まなくてはならないのです。
人生の目的と目標の違いとは
私たちが思い描く人生の目標といえば、
・部活で優勝
・大学合格
・良い仕事に就く
・趣味を満喫する
・良い伴侶と結婚する
・子どもを立派に育てあげる
・老後に不自由しないだけの資金を蓄える
・新しい経験をして人生の価値を高める
・健康で長生きする・・・などです。
これらはいずれも生きていく上で不可欠です。
働かなければ生きていけませんし、働くためには周囲のサポートを得たり、自分の価値を高める必要があります。
また、健康が土台にあってこそ、不自由なく活動できます。
いずれも「生きる」という活動を続けるために重要で、おろそかにできないものばかりです。
マラソンで例えるなら、給水場できちんと水分補給ができ、疲労を回復できるからこそ、またゴールに向かって走り出せるようなものです。
給水場が一か所も無い42.195キロのマラソンだったとしたら、途中で干からびて力尽きてしまうでしょう。
ゴールに到着することが大切だからこそ、給水場もまた大切になるのです。
マラソンはゴールが明確ですから「あと何キロ走ればゴールだ!」とファイトも湧いてくるでしょう。
しかし、人生のゴールはどこでしょうか?
苦労して働いて、人間関係にも神経を使い、健康を維持するために努力して、そうやって生きていくのは、どこがゴールなのでしょうか?
「この目的を果たすために人間に生まれてきたのだ!人間に生まれて良かった!」と喜べるのが人生の目的です。
そしてその人生の目的を教えられているのが、仏教です。
九条えみ
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