終わりを見つめると人生はもっと楽しくなる|学校では教えてくれない大切なこと
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
お悩み解消研究家のわかです。
先日、次のような話を聞きました。
小さい頃から、葬式などで仏教に触れ合っていました。
今は、葬式も外でするし、医者も家に来ない。産婆さんも来ない。
生死が昔は身近にあったが、今はないです。今の子供たちは可哀想ですね。
昔は生活の中に仏教がありました。
学校の先生も、そういうことは話しませんものね。
人が生まれる瞬間や、亡くなる瞬間が、昔は家の中にあったのですね。
現代は、医学や科学が発達し、生や死に関することは専門家に任せられるようになりました。
その分、見えなくなってしまったことがたくさんあるのかもしれません。
今回は、学校で教えてくれない人生の根本的な部分を仏教に学んでみたいと思います。
日常から見えなくなっているもの
以前、アジアを旅行して戻ってきた知人がこんなことを言っていました。
「アジアの国は、日本のように整備されていないところが多かったです。
その分、人の死も身近にありました。
当たり前のことですけど、人は死ぬんだということを改めて考えさせられました」
私たちにとって、日常の中で死ということに直面する機会は限られています。
そもそも、死には暗いイメージがつきまといますから、あまり見たくないし考えたくないというのが多くの人の意見なのではないでしょうか。
だからこそ、小学校や中学校で死についての授業は行われていません。
なるべく公に見えないように日常から隔離されてしまっているのでしょう。
生きることを考えるのが大事?
では、私たちは普段何を考えて生きているでしょうか。
人生を楽しく生きるにはどうしたらいいか。
何をすれば後悔のない人生になるか。
充実した毎日を送るには、何をすべきか。
死ぬことなんか考えていたら暗くなるだけ。
生きている今のことを考えた方が、もっと楽しく生きられる。
人生をどのように生きていくか、それが大事だと考えている人が多いのでしょう。
「生と死は一つの如し」
仏教には「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉があります。
「生と死は一つの如し」ということです。
私たちは、生きることと死ぬことは全く対照的なものと思っています。
そうではなく、紙の表と裏が決して切り離せないように、生と死は決して別にすることはできないと言われた言葉です。
生きているものは最期必ず死んでいかなければならない。
この事実を抜きにして、生きることだけ考えることはできないのです。
人生をもっと楽しくするには
「無常を観ずるは菩提心(ぼだいしん)の一(はじめ)なり」と言われます。
「無常」とは、「死」のこと。「菩提心」とは、「幸せになりたいと思う心」のことです。
人生の終わりを見つめることは、幸せになるための第一歩なのです。
私たちは、いつか死んでいかなければならないことは誰でも知っています。
しかし、その思いは漠然としているのではないでしょうか。
自分の人生に限りがあると本当の意味で知らされた時、1日1日がかけがえのない時間であることに気づきます。
そこから、時間を何に使うのかという悩みが出てくるのではないでしょうか。
時間の使い方を真剣に考えてこそ、人生をもっと楽しくするヒントが見えてくるのでしょう。
まとめ
人が亡くなる瞬間が外に移った現代において、死はあまり身近な出来事ではなくなりました。
しかし、本当は、私たちに必ず訪れる未来が死ということなのです。
死については学校で教わったりしませんし、なるべく見えないところに追いやられているのが実際です。
死ぬことは考えず、生きることを最大限に楽しもうと多くの人が考えているのではないでしょうか。
仏教には「生死一如」という言葉があり、生きているものにとって、決して切り離せないものが死であると教えられています。
人生の終わりを見つめることにこそ、人生をもっと楽しくするヒントがあるのです。
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わか
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