私の価値は他人が決めるのではない|ほめられるだけが人の値か
こんにちは。こころの悩みサポーターのこうへいです。
先日、朝のニュース番組で“ほめられたい”に応えるモノやサービスが人気を集めているという話題がありました。
「ほめられたい」、「認められたい」という感情は誰もが持っているものでしょう。
ほめられると嬉しくなって元気が出ますし、逆にけなされると落ち込んでしまいます。
他人のほめ言葉や悪口によって私自身の価値が上がったり下がったりするかのようにさえ思う人があるようです。
だから、これだけ“ほめられたい”に応えるモノやサービスが注目されるのでしょう。
みんなほめ言葉を求めている
その番組の中で紹介されていたのが、LINEで人気のキャラクター「肯定ペンギンの赤ちゃん」です。
「出勤してえらい!」とか「ちゃんと起きてえらい!」などと、日常のささいなことを何でも「肯定」してほめてくれる“肯定ペンギン”なのが特徴です。
番組で紹介されていた20代の女性は、「出社してえら~い!」というイラストを見て、「なんか『頑張ろう』という気持ちになって癒されるんです」と言っていました。
また別の20代の女性は「ささいなことでもほめてくれるキャラクターなので、すごく好きです」と話していました。
数種類ある「肯定ペンギンの赤ちゃん」のイラストを見てみると、
「生きててえらい…!」という何か深そうなものや、「だらだらしたの?えらい!」という衝撃的なものもありました。
それだけみんな褒められたいのだということが分かります。
インターネットで調べてみると、さまざまな「ほめてくれるサービス」があることが分かります。
女性向けにはいわゆる“イケボ”(イケメンボイスの略)と言われる素敵な声で褒めてくれるものがあったり、男性向けには黄色い声援のような女性の声でほめてくれるものなど、たくさん見つかりました。
「こんなものにほめられても喜ぶような私じゃない」と思っていても、次から次へと褒め言葉を聞かされると、自然と表情が緩んでしまいます。
ほめられたいという人間の要求がいかに強いものかが知らされます。
「ほめてもらいたい、しかし現実にはなかなかほめてもらえない」そんな思いを持つ人が多いから、それに応えるモノが増えているのかもしれません。
ほめられたら私の価値は上がるのか
では、「ほめられると私の価値が上がり、けなされると私の価値は下がるのか?」と質問されたらどうでしょう。
ほとんどの人は「ほめられようがけなされようが私自身の価値は変わらない」と答えるのではないでしょうか。
それは、他人の評価なんていい加減なものだと多くの人が知っているからです。
少し前まで「偉い人だ」「すごい人だ」などとほめていても、ちょっとでも風向きが変わると「ひどい奴だ」「あり得ない」などと非難をする。
そんな事例は、過去のニュースを振り返ると、誰しも1つや2つは思い浮かぶのではないでしょか。
「他人の評価なんかで私の価値は変わらない」
これが多くの人の“建前”の意見でしょう。
ところが、一人では生きられず、常に他人に見られ、お互いに評価をしあっている現実の社会においては、他人の評価に一喜一憂し、自分の存在意義を他人の評価に委ねざるを得ない状況になっています。
「他人の目を常に気にして神経をすり減らす生活はもう嫌」
「他人の評価を気にして言いたいことも言えず、やりたいこともできない。こんな生き方はもうやめたい」
このような声を聞きますが、どうしてこのようなことになってしまうのでしょうか。
それはどんなにほめられようが批判されようが変わらない、私の価値が分からないからだと言われます。
他人の評価とは関係なく、私はこのために生きているんだというものが分からないということです。
激しい非難の中を貫かれた親鸞聖人
生涯、多くの人から激しく非難され、罵られた方が親鸞聖人です。
親鸞聖人は鎌倉時代に仏教を伝えられた方で、教科書などで名前を聞かれたことのある人は多いと思います。
今では多くの作家や著名人が親鸞聖人のファンを公言していますし、親鸞聖人を描いた小説がベストセラーになっています。
それほど人気のある方が親鸞聖人です。
ところが、親鸞聖人が生きておられる間は、親鸞聖人ほど多くの人から批判された方はないと言っていいほどでした。
親鸞聖人が世間中の人から非難された理由の一つが、公然と肉食妻帯(にくじきさいたい)されたことでした。
肉食妻帯とは、殺した生き物の肉を食べ、妻を持ち女性と一緒に生活をすることです。
当時は僧侶とは結婚をせず、肉や魚を食べず、戒律(かいりつ)を守って修行する者が僧侶だとされていました。
その時代に親鸞聖人は公然と肉を食べ結婚をなされました。
それで当時の人たちからは、「戒律(かいりつ)を破った破戒坊主」「堕落坊主」「色坊主」とさんざんに非難されたのです。
しかしどれだけの非難や罵声を浴びても親鸞聖人は一切ひるまれることなく、肉食妻帯を貫かれました。
この親鸞聖人のお姿を見た夏目漱石は、このように評価しています。
「親鸞聖人に初めから非常な思想が有り、非常な力が有り、
非常な強い根底の有る思想を持たなければ、あれ程の大改革は出来ない」
夏目漱石をそこまで驚かせた親鸞聖人の思想とは何なのでしょうか。
それは、すべての人がありのままの姿で変わらぬ幸せになれるのが、本当の仏教であることを明らかにするためだったと言われます。
仏教は戒律を守って修行する人だけが救われる教えではない。
どんな人も仏の教えによって変わらぬ幸せになれるのだと明らかにするためでした。
どれだけほめられても、けなされても変わらない親鸞聖人の信念に、今日でも多くの人が感動するのです。
親鸞聖人の肉食妻帯についてはこちらのブログで紹介されています。
親鸞聖人は、なぜ公然と肉食妻帯(肉を食べ結婚する)なされたのですか?
まとめ
私の価値は他人の評価では決まらないと多くの人は思っています。
しかし現実は、他人の評価に一喜一憂し、振り回されているのが私たちです。
他人の評価に振り回されるだけの生き方を変えたいと思う人は多いと思います。
それにはまず、ほめられても、けなされても変わらない生きる目的を知ることが大事になります。
仏教にはほめられても、けなされても変わらない本当の幸せが説かれています。
こうへい
最新記事 by こうへい (全て見る)
- 醜いねたみの心に悩む青年が心惹かれたのは仏教だった - 2018年12月30日
- 高齢者の孤独が犯罪を生む|お釈迦さまの示す孤独を生きる力 - 2018年11月17日
- いつの時代も変わらぬ願い「自由に生きられたら幸せ」は本当か - 2018年11月10日