他人の評価を気にしていませんか?|悪女と言われた女帝・武則天(後)
こんにちは、暮らしを良くする研究家のこんぎつねです。
他人の評価を気にして困っている人は多いと思います。
前回の記事では他人の評価を気にせず皇帝になった武則天が皇后になるまでの話を紹介しました。
武媚は高宗のお気に入りとなり、ライバルの王皇后、蕭淑妃(しょうしゅくひ)を蹴落として皇后となります。
やがて皇帝となる武媚ですが、どのようにして皇帝になったのか、また皇帝になった後はどうだったのでしょうか。
武則天の誕生
高宗は元々病気がちで、度々めまいや頭痛に悩まされて、目が見えなくなることもありました。
武皇后は賢く、文書や歴史に詳しかったため、そういうときには武皇后が代わりに決裁をしたので、病気がちの高宗ではなく、だんだんと武皇后が代わりに政治を行うようになっていきました。
会議があると御簾(みす)の後ろに武皇后が控え、何かを決めるときには必ず武皇后に伺い、高宗はただその様子を見ているだけになりました。
武皇后は権力を握った後、自分に反対する者に対しては苛烈な制裁を加えましたが、その対象は実子にも及びました。
長男の李弘は文武両道で穏和な性格だったため人望が厚かったのですが、あるとき、処刑された蕭淑妃(しょうしゅくひ)の娘が母の罪のせいで30歳になっても家に閉じ込められたまま嫁いでいないことを知り、驚いてすぐさま誰かに嫁がせるよう申し出たことがありました。
これに武皇后は怒り、その後しばらくして李弘は急死しました。人々は武皇后が毒殺したのではないかと噂しました。
またあるとき、武皇后が気に入っていた符呪幻術師の明祟儼(めいすいげん)が強盗に殺される事件がありましたが、下手人が見つかりませんでした。
明祟儼(めいすいげん)はかつて
「次男の李賢さまは天子の重責に耐えられません」
と言っていたので、それを恨んで李賢が殺したのでないかと疑い、李賢の家を家宅捜索すると武具が数百見つかりました。
また李賢の部下が「私が明祟儼殿を殺しました」と”白状した”ため、李賢は謀反と明祟儼殺害の罪で庶人に落とされ、地方に流され、自殺させられました。
こうして武皇后が政治を掌握し、障害になりそうな相手を次々消し去っていく中で、高宗が崩御しました。
その後を継いだのが三男の李顕ですが、即位後すぐに妻の父である韋玄貞(いげんてい)を昇進させようとしたことで武太后(武媚のこと、太后は皇帝の母の呼び名)の怒りに触れて、即位後54日目にして地方に流されました。
次の皇帝は四男の李旦(りたん)ですが、完全に武太后の言いなりで本人は何もできませんでした。
そのうち武太后は
「うちの子たちは揃いも揃って頭も政治にも疎い子ばっかりね。ずっと前から政治は私が面倒見てるし、もういっそのこと私が皇帝になったほうがいい国になるわ」
と思ったのか、李旦を廃して歴史上初めての女性皇帝になりました。
武則天の誕生です。
武則天の政治
武則天の政治で非難が多いのは密告による恐怖政治です。
自分に反対する勢力を撲滅しようと、武則天が即位する前から密告が奨励されました。
「密告したいです」と言えば農民でも木こりでも謁見が許されました。
たとえそれが事実無根でも罰されず、内容が気に入られればすぐに官位が与えられたため、多くの人が殺到しました。
また拷問官を数人雇い、自白を強要したために多くの人が無実の罪で捕まって処刑されました。使うだけ使った後にこの拷問官たちも人々の溜飲を下げるために処刑されています。
官吏たちは身の危険を感じて、すれ違っても言葉を交わすことなく目くばせだけするようになり、毎朝家を出るときに家族と最期の別れをしてから仕事に向かうようになりました。
このような恐怖政治を敷いた武則天ですが、いい加減な政治をしていたわけではなく、贅沢に溺れたわけでもありません。
人材不足を補うために多くの人を登用しましたが、たとえ職務に就かせても無能な者はすぐに降格したり刑罰を与えました。
賞罰は自分で握り、正確に判断して天下を治めていたのです。
政治は誰かに任せるのではなく自ら行い、しかも武則天自身が優秀で決断力もあったため、当時の賢者たちは喜んで武則天のために働きました。
さらに武則天の人材を見抜く力は傑出しており、貴族制社会だった当時では本来高位に就けないような身分だった優秀な人たちを高位に就けて、政治を安定させました。
このとき採用された人物たちが、後の玄宗の時代に『開元の治』と呼ばれる唐の最盛期を現出しています。
「無能な貴族や名門たちに任せておいたら国がダメになる」と考えての粛清だったのかもしれません。
武則天の統治は15年続きましたが、その間農民反乱は起こらず、戸数も減らなかったため、中央のゴタゴタとは打って変わって、多くの民衆の生活はある程度安定していたと考えられます。
密告制度により賄賂の授受ができなくなったため、賄賂代のために民に重税を課す官吏がいなくなったことを考えますと、密告制度は民衆にとってはいい制度だったと言えるでしょう。
武則天は「権力を握って好き放題してやろう」と思って策略を巡らして皇帝になったのではなく、「少しでも国を良くしよう」と思って周りからの評価を気にせず皇帝になったのだと考えれば、彼女の冷酷な態度も理解できる気がします。
一族や自分のお気に入りを要職に就けて専横を招いたことは非難されますが、女性でありながら皇帝になったことによる周囲の反感を防ぐために、周りを身内や支持者で固めたのは当然でしょう。
数千人が犠牲になった密告制度と拷問官を使った恐怖政治も批判の対象になりますが、後の明(みん)の時代の初代皇帝・朱元璋(しゅげんしょう)は10万人の官吏を粛清しましたが、希代の悪帝とは言われていません。
戦国時代には秦の白起(はくき)という将軍が生涯で80万人以上を殺し、項羽もまた数十万人を殺していますが、どちらも英雄視されています。
武則天以上に多くの人を苦しめた人は中国史にはたくさんいますが、それでも『三大悪女』と不名誉な呼ばれ方をするのはなぜでしょうか。
泣くも笑うも ウソの世の中
私たちは他人からの評価をとても気にしています。
他人からの評価を気にしない人はほとんどないでしょう。
しかしその他人からの評価はどれだけ当てになるのでしょうか。
武則天が実情以上に悪く評価されているのは、「男に従順でなければならない女の身でありながら、権力に固執して身内や実の子供まで手にかけた」という「女性はこうでなければならない」という儒教の思想、中華の考え方によるところが大きいでしょう。
もし今後強い女性が今以上に評価される時代が来れば、武則天は強い女性の象徴として称賛されるかもしれません。
人間の価値判断は、その人が生きている環境の影響を強く受け、またその人の都合によっても変わります。
例えば、毛沢東の夫人で文化大革命を指揮した江青(こうせい、ジャン・チン)という女性は、武則天同様、夫の死後に自分が権力を握ろうと考えていたため、武則天を称賛する活動をしています。
あなたもさっきまで悪く評価していた人が、ちょっとのことで評価を見直されたり、あるいはその反対のことが起こったりしたのを見たことはないでしょうか。
他人が「おまえは悪いやつだ」と言うから悪い人なのでもなければ、「君はいい人だ」と言うからいい人なわけでもありません。
他人は必ずしも正しい評価をするわけではないのです。
今は良い評価をされていても、時間が経つと「あいつがあんなことやったからこんな酷いことになったんだ」となるかもしれませんし、今は悪い評価をされていても「あいつがあの時、反対勢力にめげずにがんばってくれたから今回何とかなった」となるかもしれません。
このようにコロコロ変わるいい加減な価値判断を禅僧・一休は
「今日ほめて 明日悪くいう 人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」
と笑っています。
大事なことは他人からの評価ではなく自分がどうか、ということです。
私たちは行動を起こすときには自分の心に従って行動しますから、「自分がどうか」ということは「自分の心がどうか」ということです。
「よもすがら 仏の道を 求むれば わがこころにぞ たずね入りぬる」(源信僧都)
仏教ではコロコロ変わる人間の心について深く教えられています。
こちらの記事で詳しく解説しています。
AIの進化により幸せのカギである「人間とは何か」が問われる
まとめ
私たちは他人の評価で一喜一憂して、他人からよく評価されようとあくせくしています。
昔の中国の唐の時代、武則天は男尊女卑の世の中において、皇帝まで登り詰め、周りの評価に負けずに国を良くしようと改革を進めました。
仏教では他人の評価はコロコロ変わるいい加減なものだと言われ、人間の心について深く教えられています。
こんぎつね
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