ワンマン上司になっていませんか?|素直な劉邦とワンマン項羽の教訓(前)
こんにちは、暮らしを良くする研究家のこんぎつねです。
あなたは部下や後輩の意見を素直に受け入れるタイプでしょうか。
それとも基本的に部下や後輩の意見は聞かないワンマンタイプでしょうか。
「俺の考えは正しい。俺のすることも正しい。俺が部下や後輩に意見をしようとも、部下や後輩が俺に意見することは許さん」
とまでは思っていなくても、
「自分の方が仕事の内容に詳しいんだから、自分の意見が正しいに決まっている」
「仕事のことがわかっていない部下の話は聞く必要がない」
という人は多いようです。
転職サイトには「上司がワンマンで疲れる」という体験談がいくつも載っており、あなたも無関係ではないかもしれません。
「上司がワンマンでイヤ。もっと自分の意見を聞いてくれる上司がいい」という声を聞くと、中国の秦代末期に活躍した劉邦と項羽の話を思い出します。
劉邦は後に400年続く漢王朝を建てた人物で(え、「新」?知らないですね。そんな15年で滅んだ簒奪王朝なんて)、項羽はその劉邦との戦いに負けて滅ぼされた人物です。
初めは圧倒的に大きな勢力を持っていた項羽が小勢力の劉邦に滅ぼされたのは、項羽がワンマンだったことと、劉邦が部下の意見を素直に聞いたところにありました。
鴻門(こうもん)の会
項羽は代々、楚(そ)の国の将軍を務めた名家の出で、劉邦はただの田舎の世渡り人でした。
項羽と劉邦が活躍した時代は春秋戦国時代が500年続いた後、秦の始皇帝が中国を統一し、ようやく戦乱の世が終わったばかりの時代です。
しかし始皇帝は自分の墓や万里の長城、広大な宮殿を作らせるために大がかりな土木工事を立て続けに行います。
そのため始皇帝が崩御した後、不満を募らせていた民たちが各地で反乱を起こしました。
項羽も劉邦もその反乱に参加していました。
項羽と劉邦は共に秦軍と戦っていましたが、劉邦は項羽が秦の主力部隊と戦っているスキに戦場を迂回して、秦の首都である咸陽(かんよう)を急襲して落としました。
今でも地方から東京に行くと、東京の街並みに目を奪われて「おのぼりさん」と言われますが、田舎者だった劉邦も咸陽(かんよう)のきらびやかさに目を奪われ、宮殿の財宝や後宮の美女たちを見て興奮します。
財宝と美女に飛びつこうとする劉邦ですが、それを止める部下がいました。
彼の名は張良(ちょうりょう)。
唐の時代に選ばれた歴史上の名将十人(武廟十哲:ぶびょうじってつ)の一人です。(他に武廟十哲に選ばれた有名な人物は『孫子の兵法』の孫武、背水の陣を敷いた韓信、三国志で有名な諸葛亮孔明など)
劉邦「うおお!財宝も美女も全部俺のものだあああ!今日から都で遊びまくるぞおおお!」
張良「はい、ダーメ」
劉邦「ええっ、なんで!?」
張良「秦は自分の欲のために非道なことをやって敵をたくさん作っていたから劉邦様はここまで来れたんです。それなのに劉邦様もここで楽しんでしまっては同じことが起きますよ」
劉邦「で、でも…」
張良「『忠言は耳に逆らう。良薬は口に苦し』ですよ」
劉邦「そうかぁ、わかったよ」
こうして部下の言うことを素直に聞いた劉邦は咸陽(かんよう)を離れることにしました。
その後項羽は秦の主力軍を破り、降伏した20万人の兵士を全員生き埋めにして咸陽に迫りますが、関所に劉邦の旗が立っているのを見て激怒します。
「俺が秦の主力と戦っている間に咸陽を奪って王になるとは何事だ!許せん!劉邦を滅ぼしてやる!!」
項羽が激怒して劉邦を滅ぼさんと進軍しているとの知らせを聞いた劉邦は真っ青になります。
項羽は自分に歯向かった相手には容赦しません。
項羽軍と劉邦軍では兵の数も質もケタ違いで、戦えば一瞬で敗れることは明らかでした。
そこで劉邦は張良の友人で項羽の叔父である項伯に頼んで
「違うんです!項羽様を差し置いて王になったんじゃなくて、先に咸陽に入って項羽様をお待ちしていたんです!その証拠に財宝にも後宮にも一切手を付けていません!関所に兵を置いていたのは盗賊対策と非常時に備えてのことなんです!どうか謝罪の機会を与えてください!」
と伝えてもらいました。
そこで行われた謝罪会見が漢文の授業でよく出てくる有名な「鴻門の会」です。
鴻門の会で劉邦は項羽に平身低頭、あまりにペコペコ謝るので項羽も討つ気がなくなり、劉邦は人生最大の危機を脱することができました。
もしも張良の言うことを素直に聞かず、財宝を奪って遊んでしまっていたら弁解ができず、劉邦の命はなかったでしょう。
一方で鴻門の会の前に項羽に「劉邦を討つべきです」と勧める部下がありました。彼の名を范増(はんぞう)と言います。
范増は劉邦の「財宝にも後宮にも一切手を付けていません」の言葉を聞いたときに「これは項羽様を待っていたのではなく、民衆の支持を受けて天下を取る野望があるからだ」と気付き、「今のうちに劉邦を討たなければ取り返しのつかないことになるぞ」と劉邦を危険視していました。
鴻門の会では項羽の隣に座り、項羽に目配せで「早く劉邦を処刑してください」と何度も合図を送りましたが、項羽は劉邦をそのまま返しました。
その後に劉邦からお詫びの品として贈られてきた器を上機嫌で眺める項羽を見て
「こんな青二才と一緒に天下が取れるか!」
と怒って、器を投げて壊してしまいました。
范増の考えは的中し、ここで劉邦を討たなかったことが後に項羽を破滅させることになります。
楚漢戦争勃発
咸陽(かんよう)に入った項羽は、劉邦によって生かされていた秦の最後の王である子嬰(しえい)一族と4千人いた秦の官吏全員を処刑し、宮殿から財物を略奪し、始皇帝の墓を暴いて宝物を奪い、宮殿を焼き払いました。
咸陽の人たちは降伏後も略奪をしなかった劉邦に対して、街をさんざん荒らして最後には焼き払った項羽を深く恨み、劉邦に人心が集まることになりました。
その後項羽は秦との戦争で功績のあった諸侯に土地を分配しましたが、その基準は功績の大きさではなく項羽との仲の良さで決めたため、多くの諸侯に不満が溜まることになりました。
このとき劉邦は当時流刑地になるほどのド田舎にある漢中(かんちゅう)と巴蜀(はしょく)を与えられています。(これらは咸陽の左にある土地だった、あるいは当時は「左」が「右」より地位が低かったことから『左遷』の語源になっています)
劉邦は不満でしたが仕方なく巴蜀に向かいました。
その際張良は劉邦に、桟道(さんどう:崖にかけられた木製の道)を焼くように進言しました。
これも素直に従った劉邦は桟道を焼いて、道を通れなくしました。
しばらくすると項羽に対する不満から諸侯が反乱を起こすようになりました。
「劉邦も反乱を起こすんじゃないか」
と項羽は疑いましたが、それを知った張良が
「劉邦様は桟道を焼いています。もし劉邦様に項羽様に逆らう意志があるならば道を焼きはしません。ですから劉邦様には項羽様に逆らう意志はありません。それよりも斉(当時の国の1つ)の田栄(でんえい)に謀反の意志があるようです」
という内容の手紙を送ったため、項羽は劉邦のことを後回しにして田栄の討伐に向かいました。
そのスキに劉邦は項羽に対して不満を持つ諸侯と連絡を取り合い、反乱軍を作り上げて項羽と全面対決を始めます。
これが項羽の楚と劉邦の漢とが戦った楚漢戦争です。
項羽は戦闘では強かったのですが、性格が短気だったため人望がなく、反乱を起こした国の兵士は全員生き埋めにし、国民も容赦なく処刑するので、反乱軍は皆一丸となって必死に戦い、戦争は泥沼化していきました。
さてこの後どのようにして劉邦は項羽を滅ぼしたのか。次回に続きます。
→ワンマン上司になっていませんか?|素直な劉邦とワンマン項羽の教訓(後)
こんぎつね
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