「果報は寝て待て」でいいの?|幸せになるために身につけたい思考法
こんにちは!
お悩み解消研究家のわかです。
子供のころに言葉を勘違いして覚えてしまい、大人になってから恥をかいたという人をよく聞きます。
「台風一過」を「台風一家」とか、「波浪警報」を「ハロー警報」だと思っていたとか。
よく考えてみたら意味のわからない言葉なのですが、子供のころは特別疑問に思わないんですよね。
なるべくなら、恥をかく前に勘違いに気づきたいものです。
自信いっぱいに言ったのに、本当は間違いだったと知ったときのあの恥ずかしさといったらないですからね。
私は、「果報は寝て待て」ということわざを、「家宝は寝て待て」とずっと勘違いしていました。
「家宝を寝て待つってどういうことなんだろう?」と思わなくはなかったのですが、よく調べないまま大人になってしまったのです。
私が正しい言葉を知ったのは、仏教を学ぶようになってからでした。
恥をかく前に「果報は寝て待て」だと分かったのはよかったのですが、私にはもう一つ疑問がありました。
このことわざの意味を調べると、「幸運の訪れは運によるのだから、あせらないで自然に時機が来るのを待て」と書かれています。
つまり、何も努力しなくても幸せはそのうちやってくると言っているわけですが、それを聞いて本当にそんな都合のいい言葉なのだろうか、と思ったのです。
果報は寝ていればくるもの?
どうしたら幸せになれるのか。
これは老若男女問わず、誰しもが考えることではないでしょうか。
不幸になりたいと思っている人は1人もいません。
だから、私たちは、「どちらの方がより幸せか」を基準に取捨選択を繰り返してきたのです。
レストランに行ってメニューを選ぶ際には、「どれを食べたら一番自分が満足するか」を考えます。
仕事を選ぶ際には、「どうしたら自分がよりよく生活していけるか」を考えています。
毎日の服装や髪形、持ち物、時間の使い方など、自分が満足するように選んでいますよね。
ところが、幸せになるために選択しているはずなのに、いまいちうまくいかないこともあります。
どうしてこんな目に合うの?
どうして思い通りにならないの?
そんな時は何かにすがりたくて、占いや風水、お祓いなど、幸運を引き寄せるといわれているものに心が向く人もいます。
私の友人もパワーストーンにはまっていた時期がありました。
しかし、それで本当に幸せになれるのか、確信が持てないのも事実。
どうすれば幸せになれるのか、実際にはよく分かっていないのが本音です。
そう考えると、「幸運なんて気まぐれに来るものなんだからジタバタしたってしょうがない。気長に寝て待っていればいいんだよ」と言う人がいてもおかしくありません。
無駄な時間を過ごすくらいなら何もしないのが一番。そう思うのでしょうね。
そもそも運ってなんだろう
「運が良かった」「運が悪くて」とよく言います。
何気なく使っている言葉ですが、そもそも、運とはどういうものなのでしょうか?
言葉のニュアンス的には自分の力ではなく、”たまたま””偶然”私の身の上に起こったこと、という意味で使っています。
「運」という言葉を調べると、「めぐりあわせ」と出てきます。
「めぐりあわせ」と調べると、「運命」と出てきます。
「運命」と調べたら、今度は「運」と出てきます。
結局運とは何か、誰もはっきりとは分からないものなのかもしれません。
もし、生まれつき幸運な人とか、不運な人、がいるとしたら、人生は自分の力では何も変えられないことになってしまいます。
どんなに頑張っても意味がないということです。
そう聞くと、やっぱりしっくりこない気持ちが出てきます。
幸せって、一体どうしたらなれるものなのでしょうか?
ここで、改めて「果報は寝て待て」について考えてみたいと思います。
私たちの運命を決める鍵とは
「果報者」という言葉があるように、「果報」というのは「幸せ」という意味で使われている言葉です。
しかし、果報とはもともと仏教の言葉で、「因果応報(いんがおうほう)」を表すものでした。
「因果応報(いんがおうほう)」もよく聞く言葉で、悪いことが起きた時に使われていますね。
しかし、本来は「原因に応じた結果が現れる」ということですから、よいことも悪いこともすべて含んだ言葉です。
すなわち「果報」は、よいことも悪いことも含んだ言葉なのです。
「因果応報(いんがおうほう)」は、仏教で説かれる「因果の道理」からきた言葉です。
「因果」とは「原因と結果」ということ。
「道理」とは「いつでもどこでも変わらないこと」を言われます。
この因果の道理を発見され、教えられたのがお釈迦さまです。
お釈迦さまは、私たちが特に気にしている幸せになるか不幸になるかという運命の原因と結果の関係を、次のような言葉で教えられています。
「善因善果 悪因悪果 自因自果(ぜんいんぜんか あくいんあっか じいんじか)」
「良い行いをすれば幸せに恵まれる。悪い行いをすれば不幸や災難に見舞われる。自分が作った原因の結果は自分にすべてやってくる」という意味です。
だから、悪いことをやめて良い行いに心がけなさいよ、と教えられています。
幸せになれるかどうかは自分の行い次第。自分自身が決めるものだということです。
努力をすることで得られる幸せ
これを聞くと、当たり前のことじゃないか、と思われるかもしれません。
しかし、実行するのはなかなか難しいことです。
現に、「果報は寝て待て」を信じ、楽していい結果を得ようともくろんでいるのが私たちなのです。
楽をするということは、怠けるということです。
仏教ではこれを懈怠(けたい)と言われて、戒められています。
楽して得られるのは、決して良い結果ではないからです。
全世界で今なお読まれ続けている成功哲学書『七つの習慣』。
この著者である故スティーブン・R・コヴィーさんは以下のように言われています。
「成長という自然のプロセスにおいて近道をしようとすればどうするだろうか。
たとえば、テニスの初心者であるにも関わらず、人に格好良く見せるために上級者のように振舞ったらどうなるだろうか。
答えは明白である。こうした成長のプロセスを無視したり、近道したりすることは絶対に不可能なのだ。
近道を探すことは結局、落胆とフラストレーションをもたらすだけである」
一方、懈怠(けたい)の反対は精進(しょうじん)と言われ、努力をすることです。
各分野、第一線で活躍しているような人たちは、一様に大変な努力を積み重ねています。
仕事で成功するのも、その人自身の努力によるところが大きいのではないでしょうか。
自分で積み重ねた努力に裏付けられているからこそ、何事にも自信をもって取り組めるのでしょうね。
幸せになるために大切な思考法
良い行いは良い結果、悪い行いは悪い結果、の因果の道理に照らし合わせてみると、寝ていれば幸運が転がり込んでくる、というものではなさそうです。
では、「果報は寝て待て」は、どのように解釈すればいいのでしょうか?
何かに取り組んでいる時、一生懸命努力していても、なかなか結果が出てこない、ということがあります。
そうなると、「努力は報われないんだ。努力するだけ無駄なんだ」という思いになってしまいますよね。
決してそんなことはない、と教えられるのが仏教です。
「桃栗三年柿八年」と言われますが、結果が出るまでに時間がかかることも往々にしてあります。
しかし、そのまま努力を続けていれば、必ずその行いは実を結ぶということです。
元プロテニス選手の松岡修造さんは次のように言われていたそうです。
「100回叩くと壊れる壁があったとする。
でもみんな何回叩けば壊れるかわからないから、90回まで来ていても途中であきらめてしまう」
迷わずに続けることは難しいこと、しかし、その継続がやがて幸せを呼んでくるということなのですね。
まとめ
「果報は寝て待て」とは、「蒔いたものは必ず生えるのだから、ジタバタせずに寝て待っていればいい」ということで、決して何もしなくてもいいという意味ではなかったのです。
結果や成果がいつ出るか分からない状態で、迷わずに続けることは難しいです。
しかし、努力を続けていれば必ず幸せはやってくることをこの言葉は教えてくれます。
何事も、ポジティブに、良い行いを続けてみる。
それこそが幸せになるために大切な思考法なのです。
こちらの記事では、決めたことを継続して行うための心がけを紹介しています。
三日坊主で終わらせない!やる気を持続するために必要な3つの心構え
結果が出ないと途中でやめてしまいたくなる気持ちも出てきますが、頑張って続けてみようという意欲がわいてきます。
まずは実行に努めてみたいと思います。
わか
最新記事 by わか (全て見る)
- 聞く耳持たない人にはどう話す?伝えるためのポイント3選 - 2024年4月24日
- 価値観の違いをどう乗り越える?一番重要なのは同じ方向を進む同志であること - 2024年4月3日
- 説明がうまい人の共通点とは?ポイントは、相手をよく理解すること - 2024年3月13日